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    <title>あゝ思い出ごはん</title>
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    <title>国際政治記者、思い出の「キャビア丼」</title>
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    <published>2007-12-27T07:58:34Z</published>
    <updated>2009-02-27T08:29:37Z</updated>

    <summary>  　華やかな饗宴のメニューを見れば全てがわかる！　武器を使わない戦争と言われる...</summary>
    <author>
        <name>ozora</name>
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        <category term="まぜまぜごはん" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[ <p><img src="/gohan/images/420/119708761809916401159.jpg" alt="画像" />
　華やかな饗宴のメニューを見れば全てがわかる！　武器を使わない戦争と言われる外交を初めて「食」の世界から読み解いた国際政治ジャーナリストの西川恵さん（<em>写真</em>＝毎日新聞専門編集委員、右はファッションデザイナーの森英恵さん）。今年秋にはフランス政府から農事功労賞という勲章までもらってしまった。長い特派員生活で記憶に残る一品は、何だったか？</p>]]>
        <![CDATA[<p><strong>☆饗宴のレシピとワインから読み解く国際政治</span></strong><br />
　西川さんは、71年新聞記者になり、テヘラン、パリ、ローマの各特派員、外信部長を経て現職。毎週「グローバル・アイ」という国際コラムを担当する傍ら、ソフト帽を目深にかぶったファッション記者としても活躍している。</p>
<p><a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4104133019?ie=UTF8&tag=showanavigandam-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4104133019"><img src="/gohan/images/420/119856479221516127409.jpg" alt="画像" /></a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=showanavigandam-22&l=as2&o=9&a=4104133019" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />
</p>
　
<p>　96年に出版した<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4104133019?ie=UTF8&tag=showanavigandam-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4104133019" target="_blank">『エリゼ宮の食卓』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=showanavigandam-22&l=as2&o=9&a=4104133019" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />
（<em>写真上</em>、新潮社、新潮文庫）は、フランス大統領官邸エリゼ宮で展開される饗宴の舞台裏をメニューの質やワインの格付けから詳しくしく取材、歴代フランス大統領の食卓外交の政治的意図を分析した異色の労作で97年のサントリー学芸賞を受賞した。</p>
<p>　古いフランスの美食研究家の言葉「食卓にこそ政治の極地がある」のひそみに倣ったこの企画は、その後も想を新たにした雑誌連載で継続し、今年2月にはその第２弾の『

<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4106102048?ie=UTF8&tag=showanavigandam-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4106102048" target="_blank">ワインと外交</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=showanavigandam-22&l=as2&o=9&a=4106102048" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />』（<em>写真下</em>、新潮新書）が出版された。</p>
<p>　10月下旬、東京青山のレストランで開かれたフランス政府の叙勲式には、羽織袴姿で出席。在日フランス大使館の公使、長年、親交のある文化勲章受賞者の森英恵さんらの祝福を受けた。</p>
<p>　西川さんは、この叙勲式にも駆けつけた元ＮＨＫワシントン支局長で、ベストセラー小説『ウルトラダラー』の著者、<a href="http://www.ryuichiteshima.com/" target="_blank">手嶋龍一</a>さんと雑誌「オール讀物」で対談をしたことがある。この中で手嶋さんは「ボクは『ワインと外交』を読んで、布団をかぶって寝てしまいたい心境だった。この本に描かれたブッシュ大統領のヨーロッパ訪問のほとんどに同行していたのにこんな面白い素材を見過ごしていたのですから」と脱帽。「これからも饗宴外交の語り部を続けてください」とエールを送った。</p>
<p><strong> ☆外国人食べ放題だったキャビア</span></strong><br />
　さて、その西川外交シェフの「思い出ごはん」は、働き盛り若き日のテヘラン特派員時代の話。トリュフ、フォアグラと並んで世界三大珍味といわれるキャビアの本場で、どうすれば日本人の口に合った食べ方が出来るか？工夫を重ねてたどり着いたのは炊き立ての白い丼ごはんにのせることだった。以下、思い出ごはん亭に寄せてくれたその特派員報告である。</p>
<p>
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4106102048?ie=UTF8&tag=showanavigandam-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4106102048" target="_blank"><img src="/gohan/images/420/119856482388316417409.jpg" alt="画像" /></a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=showanavigandam-22&l=as2&o=9&a=4106102048" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />
</p>
<p>（西川）がテヘランに特派員として赴任したのは1982年だったが、当時のイランは内憂外患という言葉がピッタリだった。国内ではイスラム革命（1979年）の混乱が尾を引き、対外的には革命翌年に突如イラク軍の侵攻ではじまったイラン・イラク戦争が膠着状態に陥っていた。急進的なイスラム化への警戒と、アメリカ大使館人質事件が解決して間もない時期で、イランは国際社会で孤立していた。</p>
<p>　食料も乏しかった。経済制裁で外国から食料品が入ってこず、食用油、小麦粉、ミルク、牛肉、チキンといった輸入食品には配給制がしかれていた。配給の対象とならない外国人は、法外な値段の闇市で入手するしかなかった。
　</p>
<p>　そんなテヘランで唯一、外国人が食べ放題だったのがキャビアである。イスラム教徒は鱗のない魚を食べることはご法度で、チョウザメがそうだった。宗政分離の王政時代は金色に輝く最上級のキャビアは国王に献上され、欧米文化に慣れ親しんだ上流階級の人々も食していた。それが革命でイスラム法が厳格に適用され、当局が監視の目を光らすようになり、キャビアは輸出向けか、イラン在住の外国人用のみとなったのだ。<br />
　<br />
　イランのキャビアはロシア産よりもいいと言われる。同じカスピ海で獲るのだから本来違いはないのだが、問題は獲ってから口に入るまでの時間、つまり鮮度の違いなのだろう。</p>
<p>　日本人はキャビアというと黒々と光った粘り気ある粒を想像するが、最上のキャビアは先ほど述べたように金色に輝き、粒も粘り気はなく、ポロポロと弾むようにこぼれる。これが時間とともに薄いグレーから濃いグレーに変化し、粘りが出てくる。細胞が破れ、中の液体が出てくるのだ。最後はわれわれがよく知る黒々とした色になり、糸を引くようになる。</p>
<p>　金色のものはめったになかったが、弾力のある薄いグレー色のキャビアはふつうに手に入った。魚屋の前を通ると、外国人と見て「キャビア買わない？」と声がかかる。日本円にして500グラム1000円から2000円だった。最初はスプーンですくって食べていたが、魚臭さと油っぽくてたちまちに飽きた。一週間はもう見るのも嫌という感じになって、結局ダメにする。いかに飽きずにたくさん食べることができるか。いろいろ試した末に、私が行き着いたのがキャビア丼だった。</p>
<p>　丼のご飯の上にまず千切りのキュウリとタマネギのみじん切りを敷く。そこにキャビアを豪快に乗せる。キャビアの間にワサビを点々と置き、醤油を上から軽くかけ回す。最後に海苔を散らすのである。あとは一気呵成にほおばるのみ。<br />
</p>
<p>　ポイントはキャビアの魚臭さと油っぽさをどう取るかなのだが、キュウリ、タマネギ、それに醤油とワサビがそれを中和して消し去ってくれる。キュウリの千切りとタマネギのみじん切りを多めにするのがコツである。２年間の特派員時代、数えてみれば月に一回はキャビア丼を口にしていたが、内陸のテヘランでは生魚が手に入らないため、魚を食す代替行為でもあったと思う。
</p>
<p>　テヘランの任期を終え、ヨーロッパ経由で帰国した際、ドイツのボンに立ち寄った。先輩の特派員に200グラム缶のキャビアをお土産に渡し、食べ方を指南した。キャビアと千切りキュウリ、タマネギのみじん切りを海苔で手巻きにし、ワサビ醤油につけて食べる。つまりキャビア丼の別バージョンである。
</p>
<p>　帰国した私に、その特派員から報告があった。「あんな美味しいキャビアの食べ方があるとは思わなかった。女房と『美味しい、美味しい』と言いつつ、あっという間に食べてしまった」と。</p>

<p>　日本でも豪華なパーティーだと、クラッカーに黒いキャビアが申し訳け程度に乗ったつまみがサービスされる。いつもは忘れているのだが、それを目にすると、口一杯に頬張ったイランのキャビア丼を思い出すのである。</p>
<p>　　　　　　　　　☆　　　　　　　☆　　　　　　　　☆</p>
<p> 　ちなみにこのときのボン特派員は、現在の日本新聞協会会長・毎日新聞社長の北村正任さん。往時茫々である</p>
]]>
    </content>
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    <title>塩田さんちの「思い出喧嘩ごはん」</title>
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    <published>2007-12-24T06:13:14Z</published>
    <updated>2009-02-24T07:21:42Z</updated>

    <summary> 　名前の通りまん丸顔。いつもにこやかなヒゲとメガネの紳士は、傘寿を超えてなお矍...</summary>
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        <name>ozora</name>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.showanavi.jp/gohan/">
        <![CDATA[ <p><img src="http://www.showanavi.jp/gohan/images/420/119794636129616405485.jpg" alt="画像" />　名前の通りまん丸顔。いつもにこやかなヒゲとメガネの紳士は、傘寿を超えてなお矍鑠（かくしゃく）。作家・評論家の塩田丸男さん（<em>写真</em>）は軽妙洒脱な人間学を説く一方で、食の本も数え切れないほどある。日本全国の山海の珍味を食べ尽くした無類の食いしん坊の「思い出ごはん」とは一体何か？</p>]]>
        <![CDATA[<strong>☆日本全国食べ尽くす</strong><br />
　1924年生まれ、83歳になる塩田さんは、今年だけで3冊の本を上梓した。『マユツバ語大辞典』、『日本語詩歌小辞典』、『思わずニヤリ"ちょっと知的な"ことわざ学』。圓翁の名で楽しむ俳句は銀座の「安具楽句会」など三つの句会を主宰し、サンデー毎日の俳句欄の選者も務めている。<br />
<br />
　食いしん坊話の本は『フグが食べたい！死ぬほどうまい至福の食べ方』など数多いが、近年の大仕事は2000年から3年がかりで取り組んだ週刊新潮の「いのちの『食』訪問」という連載記事。味噌、醤油、納豆など日本の伝統食の現場を毎週見て回り、そして食べまくった。「76歳の老人に全国を飛び歩く仕事を頼んだ編集者も編集者だが、それをやったボクもボクだなあ」と苦笑いする。<br />
<br />
　塩田家は夫人のミチルさんも一人娘のノアさんもともに料理研究家というグルメ一家というのもよく知られた話。ミチルさんは手軽に出来る家庭料理、ノアさんはイタリアの家庭料理や現在住んでいるパリの暮らしから生まれた欧風料理が得意である。<br />
<br />
　エッセイストで『味はみちづれ』などの共著もあるミチルさんとは、今年結婚54年。そもそもはその昔、週刊読売編集部で机を並べる同僚記者だった。塩田さんはその新婚時代の思い出を綴ったこんなエッセイを書いたことがある。<br />
<br />
<strong>☆胸キュンの新婚旅行</strong>　　　　　　　<br />
　私たちが結婚した昭和28年7月は、世の中も騒然としていて、吉田首相の「バカヤロー解散」で国会は大荒れ、テレビ放送がはじまる、伊東絹子がミスユニバースに入賞するなどニュースが山ほどあって、新米記者の私は睡眠時間もろくにないくらいだった。<br />
<br />
　妻の方も同然で、私たちは結婚休暇も取れなかった。結婚した翌日から普段のように出勤して働いた。秋になって恒例の社員旅行があり、部員一同打ち揃って伊豆の伊東に出かけた。その夜、例によって宴会の後、同僚たちと麻雀卓を囲もうとする私を部長が呼び止めた。<br />
<br />
　「お前たち、新婚旅行、行けなかったんだろ。別棟に二人だけの部屋をとっておいてやったから彼女とゆっくりしてこい。今日を新婚旅行ということにしろ。麻雀なんかいつもできる」<br />
　　<br />
　思いもかけぬ部長の言葉に私はキューンと胸が熱くなった。伊東と聞くと、今でもこの部長の言葉を反射的に思い出さずにはいられない。<br />
<br />
<strong>☆お雑煮を巡って初めて夫婦喧嘩</strong><br />
　さて、塩田さんの「思い出ごはん」は、この新婚旅行のすぐあとに迎えた正月の出来事である。晴れやかなおせち料理と一緒に並んだお雑煮を見て、塩田さんはびっくり仰天した。山口県生まれ、大阪育ちの塩田さんが子供のころから食べ慣れてきた関西風お雑煮とまったく異なる東京風雑煮だったのである。<br />
<br />
　塩田家の関西風雑煮は丸もちにさといもなどが入った白みそ仕立て。代々江戸っ子家系のミチルさんの作った東京雑煮は焼いた角もちにかまぼこや小松菜などが入ったすまし仕立て。「こんな雑煮は見たことがない！」という夫に「あなたの方の雑煮こそ何よ！もちを煮込んでしまうなんて、もちのくずだわ」と妻が応酬して喧嘩になった。思えばこれが夫婦喧嘩第一号だった。<br />
<br />
　「お雑煮はあらゆる食べ物の中で一番ふるさと色が強い。私の友人の中には元旦は山梨出身の夫、2日は岩手出身の妻、3日は東京生まれの子供のための東京、と日替わりにしたり、作り方や具材で混合型にしている家庭もある。ウチはその後、結局混合型で円満解決していますが、いやあ、雑煮ほど特異な食はありませんねえ」<br />
<br />
　師走のこの時期、新聞や雑誌ではよく「日本全国お雑煮自慢」の特集が組まれる。角もち・すまし文化圏が多い東日本に対して、丸もち・白みそ文化圏が優勢の西日本。小豆汁文化圏の山陰、粒あんを包んだもちが入った白みそ仕立ての香川県など千差万別。地域特性が結婚によって変化し、増殖する家庭ごとの雑煮文化。<br />
<br />
　毎年、正月になると、日本のどこかの新婚家庭で夫婦喧嘩が起きているかもしれないと思うと楽しいですねえ。塩田さん！そして全国の皆さん！]]>
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    <title>「ぎんぽう」って美味い魚、知ってるかい？</title>
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    <published>2007-12-20T07:48:38Z</published>
    <updated>2009-03-16T08:01:52Z</updated>

    <summary>  　今風に言えば、ちょいわるおやじ。昔は、ホモ・ルーデンス（遊び人間）と呼ばれ...</summary>
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        <name>ozora</name>
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        <category term="家族ごはん" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.showanavi.jp/gohan/">
        <![CDATA[ <img src="http://www.showanavi.jp/gohan/images/420/119708739006516401535.jpg" alt="林田昭慶さん" />
　今風に言えば、ちょいわるおやじ。昔は、ホモ・ルーデンス（遊び人間）と呼ばれたこともある。東京のファッション写真家、林田昭慶（てるよし）さん（<em>写真</em>）は趣味百般「男の隠れ家」の達人である。とりわけ食いしん坊話を始めたら汲めども尽きぬ泉のごとく、その薀蓄はとどまるところを知らない。]]>
        <![CDATA[<p><strong>☆アイビーファン、幻の名著の写真集  </strong></p>

<p>　林田さんは山の手、青山生まれの青山育ち。大学を出てすぐフリーカメラマンになった。日本経済の高度成長時代が幕を開けた60年代初め。若者の間ではアメリカの名門大学生のファッションを取り入れた「アイビールック」が大人気で、林田さんはその波に乗った。</p>
<p> 　ボタンダウンのシャツ、金ボタンのブレザーにチノパンという「アイビールック」。その仕掛け人は、服飾メーカー「ＶＡＮ」の創始者で、1昨年、93歳で亡くなったファッションプロデューサーの石津謙介さん。林田さんは、この石津さんの下、ドル持ち出しもままならぬ時代のアメリカに渡り「アイビーリーグ」と呼ばれた名門8大学の写真を撮りまくった。</p>

<p><img src="/gohan/images/420/119734418763016209253.jpg" alt="ＴＡＫＥ　ＩＶＹ" /></p>
<p>　1965年に発売されたこのときの写真集『ＴＡＫＥ　ＩＶＹ』（婦人画報社）は、アイビーファンのバイブルとして長く語り継がれていたが、昨年末、ファンの熱望で<a href="http://www.mensclub.jp/mensclub/mag/takeivy/" target="_blank">復刻版</a>（<em>写真上＝表紙</em>）が出版された。41年ぶりの幻の名著復活はあっという間に完売、ネットオークションで高値取引されているほどの人気ぶりだという。</p>
<p>「ファッションとは衣食住、ライフスタイル全般のことである」。<br />
こんな持論に基づく「ＴＰＯ」の造語で知られる石津さんの薫陶を受けた林田さんは、徹底した趣味人としても知られる。スキューバダイビングは日本のはしり。自宅での薔薇作りや山椒の佃煮作りなど、やりだせば、とことん極めなければ気がすまない超の字のつく凝り性である。</p>
<p><strong>☆鴨鍋おじさん</strong></p>
<p>　料理究家で俳人の高木泉さんは長年の友人の一人。その著書『美しい日本の美味しいごはん』（アスキーコミュニケーションズ刊）は、季語を通して四季の料理を楽しむ写真エッセイ集だが、その如月（2月）の「凍解（いてどけ）」（冬の間凍っていた大地が春になって解けゆるむこと）の項に「鴨鍋は集まりの席にぴったりの献立。凍解けの頃、我が家では友人を呼んでの鴨鍋が恒例になっています。このとき活躍してくれるのが『鴨鍋おじさん』と呼ばれている男性で新橋の鴨専門店から胸肉やもも肉を買ってきてご自分ですいてくれるのです」とある。</p>
<p> 　この「鴨鍋おじさん」が林田さん。「鴨鍋の基本は、酒の入った昆布出汁に鴨肉、京人参に山形産の芹を入れるだけ。芹がびっくりするほど食べられるよ」と舌なめずりする。林田さんは食通でもあった石津さんとよく食べ歩きをしたが、滋賀県の琵琶湖畔で一緒に本格的な青首の鴨の鍋を食べた記憶がある。</p>
<p> 　ワイン遍歴も長く、自宅の地下にワインセラーまで作ってたどり着いたのはフランス・ブルゴーニュのピノ・ノワール（赤）とドイツのリースリング（白）。特にビンテージものにはこだわらないが、フランスの本場ボルドーへ行ったときはウィーンまで列車で移動しながら一ヶ月間、飲み歩いた。</p>
<p> <strong>☆天ぷらにされるために生まれてきた「ぎんぽう」 </strong></p>
<p>　歯切れのよい東京弁にエンジンがかかってきて突然飛び出したのが「ときに、"ぎんぽう"って魚、知ってるかい？」という話。首を振ると「これは煮ても焼いても食えないが、天ぷらにするとめっぽう美味いんだ」と目を細める。</p>
<p> 　林田さんは戦時中、父と一緒に父の故郷、熊本に疎開していた。天草を望む八代海の干潟でよく獲れたのが「うつぼ」を平べったくしたような「ぎんぽう」。食通だった父は「これはぬるぬるしていて気味が悪いのでみんな肥料にしたりしてあまり食べないが、天ぷらにすると美味いんだぞ」と言って晩酌をしながらよく食べていた。中学3年だった昭義少年もお相伴をした。</p>
<p>　この"ぎんぽう"。ものの本によると「銀宝」とも「ぎんぽ」とも言う。体長20～30センチ。説明文には「全国で獲れるが、食用とするのは主に関東。かつては江戸前の天ぷらとして欠かせないものだったが、最近はめっきり減少した。外見からは想像のつかないさっぱりした味で、鮮度の高いものは天ぷらに非常に美味」とあった。</p>
<p> 　林田さんの父は刀剣の鑑定家。林田さんが大学を出てすぐ、50歳の若さで亡くなったが、曲がったことは大嫌いという厳しさの半面、ケタ違いの粋な「明治の遊び人」だった。「オヤジは子孫に美田を残さず、と言って美味いものを尽くして死んだが、ボクもそうしたい。"ぎんぽう"を食べると、たまらなくオヤジに会いたくなるんです」。</p>
<p> 　 はてさて、わがごはん亭としては、美食家がかくもうなる"ぎんぽう"とやらのご尊顔を拝してみたいもの。「今度一緒に行こう」という誘いが待ちきれず、林田さんごひいきの都内の店をのぞいてみた。この道50年の主人は「あれはさばくのが結構難しくて職人泣かせ。最近は築地でも知らない若い衆がいるし、第一めったに手に入らなくなって・・・」と申し訳なさそうに言った。</p>

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    <title>人気料理人、野崎洋光さんの「親父ごはん」</title>
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    <published>2007-12-12T08:21:31Z</published>
    <updated>2009-03-16T08:28:04Z</updated>

    <summary>　少年のような柔和な笑顔にわかりやすい話。和食の達人として人気の野崎洋光さん（写...</summary>
    <author>
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        <![CDATA[<p><img src="http://www.showanavi.jp/gohan/images/420/119734398678916109309.jpg" alt="画像" />　少年のような柔和な笑顔にわかりやすい話。和食の達人として人気の野崎洋光さん（<em>写真</em>）は、東京南麻布の日本料理店「分（わけ）とく山」の総料理長である。話題のミシュランガイドで一つ星が付く以前から予約は数ヶ月待ち。40冊を超える著書に加えて、テレビなどでも引っ張りだこ。気鋭のプロの心に残る「思い出ごはん」は一体何だろう？　ヤボを承知で聞きに行った。</p>
]]>
        <![CDATA[<p><strong>☆大家族、個別のお膳で食べた原風景</strong></p>
<p>　南麻布と言えば、外国大使館が点在し、超高級マンションの広尾ガーデンヒルズなどにも近い"セレブ"の街。師走某日、地下鉄広尾駅から近い交差点の角に建つ瀟洒な店で、野崎さんはお馴染みの白い割烹着姿で迎えてくれた。<br />
<br />
　開店前の忙中閑の時間帯。入り口のテーブルに座る間もなく「これでいいですか？」といきなり目の前に運ばれて来たのは、炊きあがったばかりの土鍋ごはん。一瞬戸惑う私に、野崎さんは「これが私の思い出ごはんです」。子供のころ食べたと言う「ごはん」を早手回しに再現してあったのには驚いた。<br />
<br />
　野崎さんは、1953年、福島県南部の古殿町（石川郡）の生まれ。9人兄弟の8番目の4男坊。父は小学校の教師だったが、代々農家で畑もやっていた。「ごく普通の農家ですよ」とは言うものの、白壁の大きな家には、祖父、祖母、さらには曾祖母も一緒の4世代の大家族。貧しくて学校に行けない家庭の子供を引き取って住まわせたり、営林署の役人や富山の薬売りも気軽に泊めるなどいつも大勢の人が出入りしていた。<br />
<br />
　小さい頃の食事は、いつも１５、6人が勢ぞろい、囲炉裏のある居間に一人一人のお膳を並べて食べた。上座の祖父を中心に年の順にずらりと並ぶが、お膳の高さが少しずつ違っていて、年長者は脚つき、子供たちは床にぺたりとついた平らなものだった。<br />
<br />
　大正初めの生まれの母を除けば、年寄りたちはみんな明治生まれ。個別に配膳されているから子供たちはおかずを取り合うこともない。箸の上げ下ろしにもうるさい厳格な父の元、静かに礼儀正しく食べる光景は「道徳」の時間でもあり、明治文化そのものが残っていた。<br />
<br />
　海の幸にも山の幸にも恵まれた食卓で、よく食べて美味しかったのは「五目ごはん」。ごぼう、人参、油揚げ、こんにゃくなどに、親戚の鉄砲撃ちの名人が獲って持って来てくれる雉（キジ）の肉や時には毛皮を取るために飼っていたウサギの肉も混ぜて炊き上げた薄い醤油味の"かやくごはん"である。<br />
<br />
<strong>☆初めて見た頑固親父の調理姿</strong></p>
<p>　小学校に上がる前のころのある日、父に連れられて2つ年上の兄と一緒に太平洋に面した隣町、いわき市の「神白（かじろ）温泉」へ出かけた。はっきりした記憶はないが何でも兄の"おねしょ癖"を治すのが目的だったらしいが、自炊の出来る湯治場で父が「今晩のめしはオレが作る」と宣言して「缶詰ごはん」を作ってくれたのには驚いた。<br />
<br />
　鯖だったか鮭だったかの缶詰を開けて玉ねぎとネギをきざんで炊いただけの簡単料理。素朴な味で美味しかったが、洋光少年にとっては、「男子厨房に入らず」を絵に描いたような明治男の父が、無骨な手つきで調理する姿を初めて見て驚嘆した記憶の方が鮮明に残っている。野崎さんの「思い出ごはん」はまさにこのとき父が作ってくれた「缶詰ごはん」（<em>写真上、手前の鍋ごはん</em>）だったのである。<br />
<br />
　野崎さん、実は高校時代に家出をしたことがある。あまりに厳格だった父に反抗し家を飛び出して東京に出た。兄のツテで建設作業員のアルバイトをしていたが結局、10日間で家族に連れ戻された。<br />
<br />
　東京の栄養専門学校に進学した最初の夏休みに帰省したら、正座した両親に「ようこそお帰りなさいませ」と敬語で迎えられた。幼いころから「年上の人を大事にしろ」「挨拶をきちんとやれ」と言われ続けていたことを思い出し、「ああ、負けたな」と思ったという。<br />
<br />
　頑固一徹な教育者ながら時には冗談も言っていた父は晩年「俺が死んだら花火をあげてくれ」と言った。10年前、93歳で亡くなったとき、兄弟みんなで本当に花火をあげて見送った。<br />
<br />
　「分とく山」の常連客の一人にミスタープロ野球の長嶋茂雄さんがいる。2004年のアテネオリンピックの前のこと、いつものように店に現れた長嶋さんは野崎さんに直接「一緒にアテネに行ってほしい」と告げた。長嶋さんはオリンピックの前に脳梗塞で倒れて現地に行けなかったが、野崎さんは日本代表チームの料理長として納豆などを山ほど抱えて随行した。<br />
<br />
　「子供のころ、たくさんの家族の中で育ち、手作りの食事をきちんと作ってくれた祖母と母がいました。その味が私の原風景です。笑って白いごはんを食べられることが一番の幸せであることを忘れないようにしたい」<br />
<br />
　当代一の売れっ子料理人は「近頃、だんだん父親に似てきました」と苦笑いした。<br />
<br />
</p>
<div><img src="http://www.showanavi.jp/gohan/images/420/119734402656416109481.jpg" alt="画像" /></div>
<br />
（「食べ物の中で一番美味しいのはやっぱりお米」。新潟県の萱森農園で稲刈りを楽しむ野崎さん＝07年9月）<br />
<br />
]]>
    </content>
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    <title>滑稽俳句王！ 俳句で綴る「思い出ごはん」</title>
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    <published>2007-12-10T07:39:00Z</published>
    <updated>2009-03-16T07:55:52Z</updated>

    <summary> 　「俳句の本来は俳諧、滑稽（こっけい）にあり」。 　NHK・BS放送の人気番組...</summary>
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        <category term="まぜまぜごはん" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.showanavi.jp/gohan/">
        <![CDATA[ <img src="http://www.showanavi.jp/gohan/images/420/119708721162316106477.jpg" alt="画像" />　「俳句の本来は俳諧、滑稽（こっけい）にあり」。<br />
　NHK・BS放送の人気番組「<a href="http://www.nhk.or.jp/haiku/" target="_blank">俳句王国</a>」の元司会者で俳人の<a href="http://homepage2.nifty.com/HAIKUWORLD/" target="_blank">八木健</a>さん（<em>写真</em>）は、かねて持論の滑稽俳句の復興に向けて大車輪の毎日。シャワーのごとく作る俳句は一句2分。怒涛のごとく句集を出し、本を書き、選者を務め、講演会をこなす。「思い出ごはん」も滑稽俳句で綴ってもらった。]]>
        <![CDATA[<p><strong>☆メシより好きな俳句</strong>
</p>
</p>
<p>　若いころ、FM音楽番組の人気ディスクジョッキーだった八木さんは、元々ウィットと風刺の効いたおしゃべりが得意。「俳句王国」の番組を担当してすぐ「三月の甘納豆のうふふふふ」の句で知られる俳人坪内稔典さんに勧められて俳句を始めた。<br />
<br />
　なつかしのお味噌が届く年の暮（おお、みそか）<br />
　かき氷どの部分からくずさうか<br />
　野原大学音楽学部草笛奏法研究生<br />
　○△□に灯りキャンプ場</p>
<p>　冗句満載の句集は初句集『ふふふ』（本阿弥書店）以来、今年の『怠けぐせ』（同）まで７年連続７冊目。『八木健のすらすら俳句術』（岳陽舎）などエッセイ集も多数ある。これらの著作物は、実は、伝統俳句の本道を踏まえた内容も多く「八木流話術にゆめゆめかどわかされてはならぬ」とは俳人仲間の評である。</p>
<p> 　静岡出身ながら２度の務めの俳句王国・愛媛が気に入って、住みついたが、東京、横浜などへの出張教室で全国を駆け巡っている。自称俳句中毒、俳句依存症。「メシより好きな俳句」にどっぷり浸かった充実人生。以下は我がごはん亭特別講演の抱腹絶倒「美味しい俳句自分史」である。
</p>
<div style="text-align:center;">
<p><img src="/gohan/images/420/119841355245816320158.jpg" alt="画像" /><br>
（八木さんの似顔絵）</p>
</div>
<p>中学生の頃、手相を見てもらったことがありましてね。「君は料理人か話す商売がいい」と言われたことがあった。結局、話すほうを選んでNHKのアナウンサーになった。が、今でも料理には関心がある。
</p>
</p>
<p>　小学四年生のとき祖父に連れられて静岡の田舎から東京に遊びに行った。寿司屋に入って、目の前で格好よく握ってくれるのに感激した。それからほどなく正月になった。二つ年長の兄と客をもてなすために家にカウンターらしきものを整え寿司屋を開いた。ねじり鉢巻をして年賀の客に「お客さんなにを握りましょう」なんてやったのだ。得意だった。</p>
<p> 　今では静岡から一時間ちょっとで行けるが当時はSLで一日がかりで行った。東京は今の感覚でアメリカほど遠い存在で握り寿司は「凄い文化」だったのだ。</p>
<p><strong> 沢庵や蒟蒻などを寿司ネタに</strong></p>
<p> 　昭和36年にNＨKに入社して最初の赴任地が富山だった。当時はワンルームマンションなんてなかったから間借りだった。和田助産院の二階に下宿した。下宿のおばさんが助産婦で旦那さんは家庭薬配置の仕事だった。下宿人だから和田家の食卓で家族とともに食事させてもらった。旦那さんは料理が巧みだった。家庭薬配置の仕事で長期間各地に滞在して自炊をして腕を磨いたらしい。</p>
<p> 　太平洋側に育った私は初めて日本海の魚介を食べることができた。バイ貝の煮付け　甘エビの刺身　カワハギの刺身や煮つけ　蛍烏賊も初体験だった。下宿のおばさん和田せつさんは絵が好きで、私とウマが合った。食事しながらふたりで絵を描いたものだった。</p>
<p> 　甘エビの鬚ながながと描かれたる</p>
<p> 　NHKの俳句王国を担当したのがきったけで、私は定年退職後本格的に俳句をつくるようになり、最近では　豪華客船「<a href="http://www.best1cruise.com/cruise/kyakusenn/shipdata__nipponmaru.htm" target="_blank">にっぽん丸</a>」の船内俳句講師をした。船内での食事は豪華なものである。二ヶ月三ヶ月の航海で、メニューは一度として同じものは出ない。行く先々の海で獲れた海産物もテーブルに載る。</p>
<p> 　いちばん愕いたのは「トド」の肉だった。「なにごとも体験」という気持で大きなひと切れを皿に載せてもらった。これが不味い。焦げ茶色でみた目もよくないが、硬くて味も焼きすぎたビーフのようだった。テーブルで相席となったご老人が「カラスの肉みたいだ」とポツリ。私は相槌を打った。</p>
<p> 　太平洋戦争の末期。カラスを食べたものだった。五歳ぐらいの頃の記憶で臭くて「マズイ」のひとことに尽きる。ご老人とハナシに花が咲いたのは言うまでもない。</p>
<p> 　ゲテモノよトドのつまりの珍味とは</p>
<p> 　「にっぽん丸」の航海ではさまざまなイベントやオプションのツァーがあり、船内講師も参加できることになっている。アラスカでキングサーモンを釣る企画を勧められて参加した。</p>
<p> 　キングサーモンの釣れるポイントへ2トンぐらいの漁船で行く。日本製の魚群探知機でサーモンの所在を確かめて太い竿を繰り出す。突然の猛烈な引き。船主でアメリカ人の漁師の若者が何か猛烈な勢いで怒っている。糸を緩めてサーモンを泳がせて弱らせてから引き上げろということらしい。船べりで私は必死にリールを巻いたり緩めたりした。しかし、サーモンは1メートルぐらいはあるから強い力で私は引き込まれそうになるのを必死で堪えた。アメリカ人は軽々リールを巻いている。私は貧弱な体格を恥じてコンプレックスの塊となってしまった。釣れたサーモンを食う意欲すら失くしてしまった。</p>
<p> 　ジャパニーズ引き込むキングサーモンの馬鹿力（<em>写真下</em>）</p>
<p><img src="/gohan/images/420/119841474216616419741.jpg" alt="画像" /></p>
]]>
    </content>
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    <title>忘れえぬ学童疎開の母ごはん</title>
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    <published>2007-12-05T07:27:15Z</published>
    <updated>2009-03-16T07:33:58Z</updated>

    <summary>   　学童疎開-。今どきの若者にはとんと馴染みのない言葉だろうが、シニア層にと...</summary>
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        <category term="おふくろごはん" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.showanavi.jp/gohan/">
        <![CDATA[ <img src="http://www.showanavi.jp/gohan/images/420/119665159836916301606.jpg" alt="画像" />  　学童疎開-。今どきの若者にはとんと馴染みのない言葉だろうが、シニア層にとっては戦争を語るときのほろ苦いキーワードの一つ。太平洋戦争の末期、大都市の多くの子供たちは、空襲を避けて集団で農村部に避難させられた。東京のＮＰＯ法人「大豆100粒運動を支える会」代表幹事、山下啓義（けいぎ）さん（<em>写真</em>）の「生涯忘れられないごはん」は、その学童疎開の最中の出来事である。]]>
        <![CDATA[<strong>☆多芸多才の趣味人は天才ジャズピアニストの実兄</strong><br />
　山下さんは、千葉県銚子市で400年近い歴史を持つ老舗、<a href="www.higeta.co.jp" target="_blank">ヒゲタ醤油</a>㈱の元専務。１昨年、退任した後は「スープ神様」と言われる人気料理家、<a href="http://www.tatsumiyoshiko.com/" target="_blank">辰巳芳子</a>さんの様々な食育活動を手伝う傍ら悠々自適の生活だ。<br />
　<br />
　辰巳さんは、元々はＮＨＫの「今日の料理」などでお馴染みの料理研究家。最近は料理指導だけでなく、日本の食文化や「食といのち」について積極的に提言、講演会などに大忙し。2年前から、自給率がわずか5%に激減した日本の大豆の生産を再興しようと「<a href="http://www.daizu100.com/about.html" target="_blank">大豆100粒運動</a>」を始めた。全国各地の学校や団体に呼びかけて、手のひら一杯、約100粒の大豆を播き、その生育を観察・記録しながら収穫してそろって食べようという運動だ。辰巳さんはほかにも「よい食材を伝える会」などを運営しているが、山下さんはそれらの活動を支援している。<br />
<br />
　「一線を退いてからも何故か忙しいんです」と言う山下さんの素顔は、多芸多才な趣味人。大学時代はジャズバンドでドラムを叩いていたが、そのころ、6歳下の弟をジャズの世界に引き入れた。教えられる側からあっという間に教える側に回ってしまったその弟が、かの「天才ジャズピアニスト」にして作曲家、作家の<a href="http://www.jamrice.co.jp/" target="_blank">山下洋輔</a>さん。<br />
<br />
　1970年代の半ば、洋輔さんがちょっとした冗談から「全日本冷やし中華愛好会」（略称全冷中）という遊びの会を作って会長におさまった。作家・筒井康隆、タレント・タモリ、漫画家・黒鉄ヒロシらが集まって「冷やし中華の正しい作り方」「冷やし中華文化」などについて大真面目に論議するイベントを開いてマスコミにも大人気だったが、このとき、会社の第一線にいた啓義さんもスポンサーを買って出て一緒に楽しんだ。つい最近では、「大豆100粒運動」のＰＲのため、2人で「大豆100粒のうた」を作った。兄が作詞、弟が作曲というコンビに発表会は沸いた。<br />
<br />
<img src="http://www.showanavi.jp/gohan/images/420/119665163247116400545.jpg" alt="画像" /><br />
　会社に入ってすぐ上司の薦めで始めた尺八は、日本最古の流派、琴古流で研さんを積み今や指南。（<em>上の写真左から</em>）洋輔さんのピアノ、妹眞理子さんのボーカル、そして啓義さんの尺八でファミリーコンサートをライブハウスで開いたこともある。尺八と同時に始めた俳句は、長い中断期間を経て4年前に復活、月に一回、日本橋の蕎麦屋の２階で句会を楽しんでいる。俳号は尺八の童号と同じ明童（めいどう）。<br />
<br />
<strong>☆疎開先のお寺で栄養失調で倒れる</strong><br />
　熊本生まれの東京育ち。4人姉弟の第2子長男の啓義さんは、昭和20年の終戦時、東京世田谷区の国民学校（現在の小学校）3年生。3月10日、東京の下町が焼き尽くされた「東京大空襲」。死者10万人、負傷者11万人、そして100万人が家を失う大混乱の中で、本格的な学童疎開が始まった。子供たちは、各家庭で行った縁故疎開と集団で行った集団疎開に分かれたが、啓義少年は、5年生の姉美紗子さんと一緒に長野県下伊那郡のお寺へリュック一つで集団疎開した。<br />
<br />
　同じ学校の3年生から6年生までが寺の本堂などで寝泊りする初めての集団生活。寺のふき掃除や桑の木の皮むきなど農家の勤労奉仕。三度三度の食事は大豆入りのごはん、といっても大豆の方が多い硬い少量のごはんと中身がなく底が透けて見える味噌汁だけ。あまりの空腹にヘビまで捕まえて食べる上級生もいた。　<br />
　<br />
　最年少の上、元々丈夫でなかった啓義少年は、ついに栄養失調で倒れ、意識を失ったまま寝たきりになってしまった。ちょうどそのころ、母菊代さんは東京に父啓輔さんだけを残して祖母とまだ幼い洋輔少年を連れて隣村に疎開してきた。二人はどうしているか？　安否の問い合わせで啓義少年の病気を知って寺へ飛んできた。<br />
<br />
　「この子をこのままにしておくと死んでしまう！」　そう叫んだ母は、やせ細った息子を「拉致」同然に奪い取り、背中におぶるや山門を駆け下って1里（4キロ）だったか2里（8キロ）の道を転がるようにして疎開先へ戻り飯田の病院に入院させた。<br />
<br />
<strong>☆白いごはんとジャガイモの味噌汁！</strong><br />
　母たちが間借りしていたのは、ブリキ屋さんの2階。倒れてから1週間ほども経っていたかどうか、やっと気がついた啓義少年の目の前にあったのは、家族の笑顔と湯気の立つ白いごはんに味噌の香りも高いジャガイモ入りの味噌汁だった。ジャガイモは根っこの先に出来た、やせて小さな粒の丸のまま。啓義少年はむさぼるように食べた。世の中にこんな美味しいものがあるかと思った。<br />
<br />
　母は何も言わなかったが、このときの白米も味噌もジャガイモも、持ってきた自分の着物と交換したに違いない。後年、そのときの話になると「私はお前を2度生んでやったんだよ」と笑っていたがそれは母の誇りでもあっただろう。<br />
<br />
　明るくて元気だった母。得意のピアノを子供たちに手ほどきし、教室を開いて近所の子供たちにも教えていた母。晩年は裏千家茶道の奥許し（最高位）の師範・宗菊として活躍していたが、3年の病床生活の後、昨年、94歳で亡くなった。]]>
    </content>
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    <title>在留18年、オレ流スペイン料理</title>
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    <published>2007-12-02T16:37:45Z</published>
    <updated>2009-02-24T07:01:41Z</updated>

    <summary> スペイン在留18年。華やかなフラメンコや闘牛には背を向けて、キリスト教の「巡礼...</summary>
    <author>
        <name>ozora</name>
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    </author>
    
        <category term="旅ごはん" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.showanavi.jp/gohan/">
        <![CDATA[<p>
<img src="http://www.showanavi.jp/gohan/images/420/119614736439816229123.jpg" alt="画像" />スペイン在留18年。華やかなフラメンコや闘牛には背を向けて、キリスト教の「巡礼路」などカトリックの世界を撮り続けていた一人の写真家が１昨年帰国した。東京世田谷の池利文さん<em>（写真）</em>。厳しい取材の旅の途中で覚えたスペイン料理を自分流に味付けして今も楽しんでいる。
</p>]]>
        <![CDATA[<p>
<strong>☆聖なる巡礼路を歩く</strong><br />
　　池さんがスペインに渡ったのは50代の半ば。世界遺産に指定されている西部の古い都市、サラマンカで最初の2年間、言葉の習得に励んだ後、首都マドリッドで16年間。ビザの書き換えのためにたまに帰国する期間を除いては、重いカメラ機材を積んだ車を駆り、時には徒歩でスペイン中はおろか、イタリアなどヨーロッパ各地を訪ねた。主たるテーマはキリスト教関連のルポルタージュ写真である。</p>

<p>
<a href="http://www.showanavi.jp/gohan/images/119614767521916229123.jpg" target="_blank"><img src="http://www.showanavi.jp/gohan/images/420/119614767521916229123.jpg" alt="画像" height="584" width="420" /></a></p>

<p>
　カトリックの国、スペインは多くの聖人を輩出し、聖なる巡礼地が多いが、一番大きな取材の旅だったのは、ピレネー山脈から全ヨーロッパ最大の巡礼地として有名な北部のサンチャゴ・デ・コンポステーラまで約800キロの徒歩の旅。強い日差しのもと、乾いた大地や険しい山地をよぎる苦難に満ちた26日間の巡礼路だった。このときの労作は、計画の発案者でもあった上智大学教授の門脇佳吉神父の「ことば」とともに写真集『スペイン巡礼讃歌―大地を潤す春雨のように』（春秋社、写真はその表紙）として1993年に出版された。</p>

<p>
　イタリアの石造りの山岳都市、アッシジにも門脇神父とともに大型取材を敢行した。アッシジはイタリアの聖人で第2のキリストと呼ばれる聖フランシスコゆかりの聖地。修道院の小さな独房に20日間、修道士と生活をともにした。クリスチャン作家として著名な遠藤周作さんと加賀乙彦さんが寄稿してくれた文章とともに写真集『愛されるより愛することをーアッシジの聖フランシスコ』（学習研究社、1992年）として結実した。</p>

<p>
<strong>☆商業写真から仏門へ</strong><br />
　池さんは元々は広告など商業写真のカメラマンだった。大学在学中、広告写真界の大御所、中村正也氏の助手として働き、しばらくスタジオ勤務のあと独立。広告、芸能、ファッションなど商業写真の第一線で活躍していたが「金のためなら何でもやる」仕事に嫌気がさした。あるとき舞い込んだ作家大岡昌平氏の代表作「レイテ戦記」の舞台再訪企画でフィリッピンへ同行取材した際、ルポルタージュ写真のすばらしさに目覚める。しかし、フリーカメラマンの仕事は不安定で、写真をやめようと思いつめ、もがき苦しんだあげく、縁あって高野山真言宗の総本山（和歌山）に入峰した。</p>

<p>
　心機一転、仏門に入った池さんは、厳しい修業を重ねてついには頭を剃って得度した。真言密教の世界に没入して5年。僧名を持った写真家として撮影した写真集『空海の宇宙大伽藍』（学研）は、高い評価を得た。</p>

<p>
　池さんは、高野山にいたころ、弘法大師が開いた「四国八十八ヶ所」のほとんどの遍路道を歩いている。その遍路道の先にスペインの巡礼の道があった。仏教の道からキリスト教の道へ。洋の東西の信仰の道を歩いた稀有な写真家ということになる。</p>

<p>
<strong>☆聖地で覚えたスペイン料理</strong>  <br />
　その池さんのスペイン時代の「思い出ごはん」は、聖地サンチャゴ・デ・コンポステーラで出会った「メルルーサ・ア・ラ・ガジェガ」。日本語に訳せば「ガルシア風タラの煮物」とでもいう著名な魚料理である。</p>

<p>

　フライパンにオリーブ油とすりおろしたにんにくを入れ、塩を振った生タラを軽く焼く。そこに水を足し、丸のままのジャガイモを2つほど加えて煮、ローレル（香草）を加えれば出来上がり。塩だけの薄味だが、スプーンの背中でジャガイモをつぶし、タラの身と混ぜあわせたところへパプリカを振りかけて食べると絶品だった。</p>

<p>

　もう一品は「メネストラ」と呼ばれる野菜シチュー。チョリッソと呼ばれる豚の腸詰を小さく刻んでにんにくとバターで炒め、ブイヨンの味つけ、ほうれん草やインゲン豆などありあわせの野菜を入れて煮込む。これはピレネー山脈のホステルに冷え切った冬の夜遅く到着し、親切な宿の主人が手早く作ってくれた料理で、身も心も温まった思い出がある。</p>

<p>

　「スペインの典型的な料理といえば、保守派の肉料理が多いが、この二つはエスニックな地方料理。スペインではどこでも食べられるが、日本ではどうかな？　メルルーサの煮物は滞在中よく作り、あるときから自分流にアレンジして食べていた。どうやってだって？　そりゃあ、決まっているでしょう！醤油をちょっとたらすとぐんと美味くなるんです」</p>

<p>

　　やっぱり日本人！イナセな細身のジーﾝズが今もよく似合う万年青年だが、白くなった口ひげがニヤリと笑った。</p>
]]>
    </content>
</entry>

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    <title>巨星・虚子の「なぐさめごはん」</title>
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    <published>2007-11-28T11:06:09Z</published>
    <updated>2009-05-07T11:10:04Z</updated>

    <summary>  　「祖父は40代で軽い脳溢血を患ったこともあって、とても健康に気をつけていま...</summary>
    <author>
        <name>ozora</name>
        <uri>http://www.showanavi.jp/cgi/mt/mt-cp.cgi?__mode=view&amp;blog_id=3&amp;id=1</uri>
    </author>
    
        <category term="家族ごはん" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.showanavi.jp/gohan/">
        <![CDATA[ <p><img src="http://www.showanavi.jp/gohan/images/420/119614576636516127769.jpg" alt="画像" /></p>
<p>　「祖父は40代で軽い脳溢血を患ったこともあって、とても健康に気をつけていました。食事の時はいつも"よく噛みなさい"と言いながら自分もモグモグ、モグモグ、何時までもやっていましたよ」。俳句界の巨星、高浜虚子の孫の一人で神奈川県川崎市に住む経営コンサルタント、高木森二（<em>写真</em>）さんは、威厳の中に愛嬌のあった祖父の姿をよく覚えている。中でも高校受験に失敗したとき、祖父から振舞われた「なぐさめごはん」は忘れられない。</p>
]]>
        <![CDATA[<p><strong>☆ホトトギス派の異端児</strong></p>

<p>　虚子には8人の子供と19人の孫がいた。高木さんは五女で俳人の故高木晴子さん（俳誌『晴居』主宰）の次男。森二の名付け親は虚子である。俳句は「門前の小僧」で小学1年生から母について習った。シナリオライターを夢見たこともあったが、大学卒業後は、日銀マンだった父と同じ銀行マンに。企業戦士真っ只中の頃、俳句は二の次だったが、不惑を過ぎてから本格的に勉強し、二足のわらじを履いた。</p>

<p>
　俳号は自宅のある小田急・向丘遊園にちなんで幽苑。現役時代から続けている俳句活動の中で、異色は受刑者たちの俳句指導。東京・府中刑務所が毎月発行している古い文芸誌『富士見』の俳句欄の選者である。その昔、作家の安部譲二さんを生んだこの雑誌で、塀の中の俳人たちともう10年も付き合っている。</p>

<p>
<img src="http://www.showanavi.jp/gohan/images/420/119614506245616228101.jpg" alt="画像" /><br />
　虚子は戦前、イギリスに渡り、羽織袴姿で俳句についての講演をしたことがあったが、母晴子さんは、30年近く前、これを記念してゆかりの地ロンドン郊外の王立植物園に虚子の句碑を建立した。高木さんは6年前、その母を偲んで句碑の近くにプレートを刻んだ「メモリアルベンチ」（<em>写真上）</em>。左は料理研究家の妻、泉さん）を作った。</p>

<p>
　第一線を退いてからの高木さんは、文字通り俳句三昧。５つほどの句会で指導をしながら、昨年、念願の季刊俳誌『幽苑』を創刊した。母の遺言でもあったこの雑誌発行の目的の一つは、尊敬する祖父への思いや歳時記研究を書き残すこと。</p>

<p>
　「私はホトトギス派のアウトサイダーであり、異端児ですが、虚子のこととなると一晩中でも話したい。虚子を学び、虚子を語り継ぐことは私のライフワークです」。<br />
熱を込めて語るカリスマ祖父との思い出は、子供のころにさかのぼる。</p>

<p><strong>☆鎌倉虚子庵での忘れられない夕食会</strong></p>

<p>　当時、虚子は「虚子庵」と呼ばれた鎌倉の邸宅に住んでいた。江ノ電のチンチン電車がすぐそばを走り、由比ガ浜の波音が聞こえた。後年、ホトトギス派の大きな山脈を築いていく虚子の娘たちはいずれも鎌倉市内の徒歩圏内に住んでいた。</p>

<p>
　森二少年がたまに遊びに行くと、可愛がってくれた祖母が湘南の海で獲れたばかりの「ジンタ」と呼ばれる小あじを3枚におろした刺身やしめさばなどを用意して待っていてくれた。</p>

<p>
　その後、高木家は、父の赴任先の金沢に転居したが、森二少年は中学3年のとき高校受験のため上京、母とともに鎌倉の親戚宅に寄宿、虚子庵にも泊まった。いくつかの学校の受験に失敗し、明日は金沢へ帰るという前夜、祖父、祖母、母と4人の孫子水入らずでで夕食をともにした。</p>

<p>
　「何を食べたか、すっかり忘れましたが、食卓を囲んで座った位置ははっきりと覚えています。僕の前にいた祖父は"森二君！今度のことは残念だった。しかし、これも人生だ。こんなことでへこたれず、立派な人間になってくれたまえ"とやさしく励ましてくれました。あれはうれしかったなあ」</p>

<p>
　ものの本、『作家の食卓』（平凡社、コロナブックス）によると、虚子はおでんが好物だったという。</p>

<p>
　振り向かず返事もせずにおでん食ふ<br />　おでんやを立ち出でしより低唱す<br />　おでん屋の娘愚かに美しく</p>

<p>
   など、おでんが登場する句をいくつも残している。</p>

<p>
　森二少年の記憶によると、晩年の虚子はたとえ豆腐であっても、口の中でよく咀嚼して食べた。この晩餐のときもいつものように口をモグモグ、モグモグ。失意の高木少年にとっては、尊敬する祖父からのまたとない「なぐさめごはん」という貴重なプレゼントだった。巨星はちょうどその1年後の1959（昭和34）年4月、85歳で亡くなった。</p>
]]>
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    <title>最北の百名山、利尻島のタコカレー</title>
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    <published>2007-11-26T08:04:03Z</published>
    <updated>2009-03-16T08:19:42Z</updated>

    <summary> 　北海道の利尻島を初めて訪ねた。飛行機のタラップを降りて後ろを振り向いたとたん...</summary>
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        <category term="ふるさとごはん" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[ <p><img src="/gohan/images/420/119450437620116430326.jpg" alt="利尻島" />　北海道の利尻島を初めて訪ねた。飛行機のタラップを降りて後ろを振り向いたとたん、海から屹立して真っ白な雪を頂いた利尻山（1721m<em>写真上</em>、10月19日、西谷さん撮影）が眼前にあった。「おおっ」と思わず歓声を上げたまま、しばらく動けなかった。「利尻富士は一度見ただけで何故か人に自慢したくなる山だ」という本の通りだった。今回は、<a href="http://www.town.rishiri.hokkaido.jp/" target="_blank">利尻町</a>立博物館の学芸課長、西谷榮治さん（<em>写真下</em>）の日本最北の国境離島ならでは「思い出ごはん」の話である。</p>]]>
        <![CDATA[<p><strong> ☆ニシン漁に沸いた歴史の島</strong></p>
<p>　訪れたのは、晩秋の11月初め。東京や大阪から集まった日本離島研究会のメンバー10人ほどと一緒だった。2泊3日の滞在中、案内役を買って出てくれたのが、島に住む「地域会員」の西谷さんだった。</p>
<p> 　ただ、酒を飲むだけでは研究会の名に恥じる、とばかり、西谷さん手作りのスケジュールは島の人たちとの交流が中心。町営ホテルの前の利尻町交流館で、初日は利尻山麓で獲った山葡萄を使って天然山葡萄ジュースを作る会、2日目は特産の天草を使った「心太（ところてん）」を作る会が開かれた。いずれも島の主婦たちがエプロン姿でやって来て、和気あいあいと楽しんだ。</p>
<p><img src="http://www.showanavi.jp/gohan/images/420/119450422373516322402.jpg" alt="画像" /></p>
<p>夜は、島南西部の長浜神社に伝わる獅子舞を操る青年たちとの懇親会。島には鰊（ニシン）や昆布など豊富な海産物を追って北上してきた明治時代の本州の漁師たちが、故郷を懐かしんで持ち込んだ文化が数多く残っている。鳥取県の因幡の麒麟獅子（中国の伝説上の一角獣）と呼ばれる獅子舞は、明治末期に持ち込まれ、大正期に入っていったん廃れていたが3年前、地元の青年たちの手で復活した。上の写真はその利尻麒麟獅子の頭部と西谷さんで、自身も笛を練習してお囃子方として参加した。</p>
<p>　そもそもこの島は、という歴史の話になると、島の青年たちから「学者」と畏敬の念を込めて呼ばれる西谷さんの独壇場である。</p>
<p>　曰く・・元々は火山島で1万年ほど前まではサハリンと陸路でつながり、約1500年ほど前にはオホーツク文化人と呼ばれる人々が海を渡って来たこと。「リシリ」は先住民族のアイヌ語の「リィシリ」から転じたもので「高い山の島」という意味であること。江戸時代からは日本の時代に入り、会津藩の北方警備などの歴史の跡が多く刻まれていること。明治以降、漁場が開かれてニシン漁が盛んに行われ、昭和30年代には人口が2万人を超えていたが、今は約6000人に減っていること。</p>
<p>　島の語り部のような西谷さんの頬がふとゆるんだのは、島の食事に話が及んだときだった。「私はカレーの具はタコに決まっているものとずっと思っていました」。ちょっぴり恥ずかしそうな表情で話してくれた「ふるさとごはん」の話が面白かった。後日、まとめてもらった文章は以下の通りである（概略）。</p>
<p><strong>☆東京に何故「タコカレー」がないのか？</strong></p>
<p>　利尻昆布を食べて育つウニが生育する海。島を取り巻く海は幼い頃からの遊び場だった。タコもたくさんいた。海で遊んで、岩場から足を滑らせて海に落ちることを地元では「タコとった」と言う。岩場でタコを見つけると思わず身を乗り出して海中に転落してしまうことからそう言った。私は子供の頃、いつもタコとっていた。</p>
<p>　島の高校を卒業して東京の大学に進学した。島の外で生活するのは初めてで、テレビや雑誌で見ていたことがすぐ目の前にあることの凄さを感じたが、生活で大きな違いを感じたのは二つあった。その一つはストーブ。島の家では居間の真ん中に石炭や薪ストーブがあり、ストーブでジャガイモなどを焼いて食べていた。ところが、東京の四畳半のアパートでは石炭や薪ストーブが全く使えない。初めてガスストーブを使ったが、ガス中毒が頭から離れない。夜寝るときは寒くても窓を開けて外気を入れることもあった。</p>
<p>　もう一つの違いはタコである。慣れ親しんだタコが身近に食べられない。島で最も一般的なおかずはタコとキャベツの油炒め。さっと醤油をかけて食べる。これがいつもの食べ物だった。それにカレーライス。東京のカレーライスはジャガイモやニンジンの野菜はもちろんだが、肉が必ず入っている。島のカレーライスには肉はない。必ずタコが入っている。東京でタコの入っているカレーを探したがついに出会えなかった。</p>
<p>　人々を惹きつける利尻の山と海だが、島の食堂にタコのかき揚げをのせた「タコ天そば」はあるものの、タコカレーを食べさせる店はない。しかし、島の人たちは今もタコカレーを食べ続けている。島に来た人たちにもタコカレーを食べてほしいと思っている。</p>
<p> 　　　　　　　　＊　　　　　　　　　　＊　　　　　　　　　　＊</p>
<p>　ニンマリしながら読み終わって、私は念のためウェブで調べてみた。すると、あるわ、あるわ、タコカレー。すぐ近くの稚内でも、肉の代用品として宗谷海峡産のタコを使ったタコカレーが昔から家庭の味として受け継がれて、レストランでも食べられる。タコの本場として知られる兵庫県明石市を始め、名称は違ってもたくさんのシーフードカレーの中にタコカレーがある。</p>
<p> 　西谷さん！何の遠慮がいるものか！自信を持って美味しいタコカレーを、そして利尻島の食文化をぜひ広めてください！</p>
<p>　☆西谷榮治さんのブログ「リシリヒナゲシの咲く麓から」は　<a href="http://rishiri.info/" target="_blank">rishiri.info</a>　で開けます。</p>
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    <title>卵かけごはんは別腹</title>
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    <published>2007-11-21T04:37:24Z</published>
    <updated>2009-05-14T04:41:37Z</updated>

    <summary>  　アツアツの炊きたてごはんに卵と醤油。ただそれだけで立派な食事になる「卵かけ...</summary>
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        <category term="まぜまぜごはん" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[ <p><img src="/gohan/images/420/119544156510116111675.jpg" alt="画像" /></p>
<p>　アツアツの炊きたてごはんに卵と醤油。ただそれだけで立派な食事になる「卵かけごはん」。近頃は、専用の醤油が売り出され、「卵かけごはんシンポジウム」まで開かれるなど大人気。女優の冨士眞奈美さん（<em>写真</em>）も「食べたい！」となると矢も楯もたまらず、夜中でもごはんを炊くほどの大好物である。</p>
]]>
        <![CDATA[<p><strong>☆俳人・衾去</strong></p>

<p>　眞奈美さんは、近年、俳人としての活躍がますます目立つ。俳号はご存知「衾去（きんきょ）」。江戸大奥の時代、将軍との同衾を辞退する「お褥（しとね）下がり」に例えて、「同衾」はもうお終い、男女関係はもう卒業したよ、という洒脱の姉御なのである。</p>

<p>　言葉遊びに興じていた若い頃の句には元気旺盛の句がたくさんある。例えば、芭蕉の「秋ふかし隣はなにをする人ぞ」をもじった「秋深し隣毛深き妾かな」とか「新涼や歯を抜く女医の腋毛見て」という破（ば）れ句。女医の句は、ある句会で今はなきエッセイストの江國滋さんが「面白い」と選んでくれた。</p>

<p>　秋刀魚食って男は帰る終電車</p>

<p>　というのもある。一読、この句のどこが面白いの？と怪訝な顔をした友人がいた。愛人の家で秋刀魚を食い、終電車で自宅へ帰って行く、というけちな不倫男が想像できないか？この朴念仁め！ 「緑陰へ乳房頷（うなづ）き駆けて来る」という句は、乳房が「うなづく双子のように揺れた」という若さと躍動感あふれる見立てである。</p>

<p>　この人の句で私の最も好きなのは</p>

<p>　Ｋといふ男許さず夏燃ゆる</p>

<p>　男はMでもSでもいいのだが、Ｋという音（おん）の強さと明るさ、強い憎しみの感情が「燃える夏」にぴったり。</p>

<p>　花影や恋なきものも抱擁す<br />
　時雨きて男半端な顔となる<br />
　あの頃と言ひ淀むとき祭笛</p>

<p>　エロスと皮肉（逆説的なものの見方）が衾去俳句の大きな特徴、と評したのは俳壇の大御所、金子兜太さんだった。</p>

<p>　実は、私は眞奈美さんの俳句友達の末席の一人である。一昔前、この人を中心に、気のおけない仲間が集まってこじんまりした句会を作った。酒の合間に句を作る典型的な「遊俳句会」だが、衾去さんは、心も身体も大きくていつも笑顔。句友としての内緒話だが、食べることが人一倍好きで、「夜中の卵かけごはん」の話は、句会のときにたびたび耳にしていた。</p>

<p><img src="/gohan/images/420/119544159271216407766.jpg" alt="画像" /></p>

<p><strong>☆子供のころは大ご馳走</strong></p>

<p>　卵かけごはんの食べ方には、大別すると二つの流儀、作法がある。ごはんの上に卵を直接ポンと割り込むか、あらかじめ溶いたものをごはんにかけるか？真奈美さんは「割り込むのに決まっているじゃない！事前に溶くのは、卵が貴重品で家族全員の分がなかった昔の話よ」と単純明快。以下、眞奈美流、卵かけごはんの楽しみ方である。</p>

<p>　卵かけごはんの要諦は、第一に何といってもアッチチ！と叫ぶくらいのアツアツ炊き立てごはんでなくちゃ。ごはん茶碗は大きからず、小さからず。ちょうど抹茶茶碗くらいの中丼がいいわね。ごはんの真ん中に穴を開けて割り込み、生醤油をたらしてよくかきまわしてからいただきます。半熟に焼いてから食べるのも美味しい。あまり火を通さず、黄身はほぼ生の状態よ。</p>

<p>　卵はやっぱりお取り寄せ。黄身が盛り上がるしっかりしたもの。黄身が2個入っている卵に出会うと妙にうれしかったけれど、最近はとんとお目にかからなくなった。ニワトリが初めて産む「初卵」を送ってくれた知人もいた。小さくても美味しかったわ。お米も知人に送ってもらうけどごひいきは、新潟のコシヒカリと山形の「はえぬき」です。</p>

<p>　ふるさとは静岡の三島と沼津の間の駿東郡清水村（現清水町）。東洋一の湧水量を誇り、名水１００選にも選ばれた柿田川が流れていて、クレソンが密生していた。田んぼの真ん中の我が家は、３００坪の広い庭の畑で"おかぼ"と呼ばれる「陸稲」も作っていた。</p>

<p>　ニワトリは５、６羽ほど飼っていたかなあ。卵を産むとコ、コ、コ、コと鳴いて知らせるので走っていくと、下草の竜のひげの中に生温かくてぶかぶかの殻の卵がある。早く取らないと親鳥が食べちゃうんだから。</p>

<p>　女女女男男女の６人姉弟の三番目。すぐ下の弟は女ばかり続いたあとにやっと生まれた男の子で、母には特別可愛がられた。随分あとになってから母が笑いながら、あなたたちは気が付かなかっただろうけど、卵かけごはんのとき、弟のごはんの下には最初から卵が一個隠れていたんだよ、と告白した。知っていたら（喧嘩になって）大変だったわよ（笑い）。</p>

<p>　眞奈美さんは、テレビや舞台などの仕事の合間に、今もＢＭＷのスポーツカーを乗り回し、メジャーリーグを観戦し、オペラを楽しむ。句会は取り混ぜて５つほど。来年はじめには初めての句集を出す。ひょっとしたらその元気の素は卵かけごはんだろうか？</p>

<p>　ある年の暮れ、横浜中華街で開かれた落語家の入船亭扇橋さんや小沢昭一さんたちの「東京やなぎ句会」忘年句会に、俳人鷹羽狩行さん、岸田今日子さん、吉行和子さんらとともにゲストとして呼ばれた。最後の締めの一品に出てきたのが卵かけごはん。みんな中華料理でお腹いっぱいのはずなのに「うまい、うまい」と食べた。<br />
　「卵かけごはんは別腹なのよ！」<br />
　衾去さんは嫣然（えんぜん）と微笑むのである。<br />
</p>
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    <title>ふるさと対馬の母の味</title>
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    <published>2007-11-19T09:48:53Z</published>
    <updated>2009-03-16T09:51:32Z</updated>

    <summary> 　島には大自然がある。うまい魚と酒がある。歴史がある。ゆったりした時の流れがあ...</summary>
    <author>
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        <category term="おふくろごはん" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[ <p><img src="/gohan/images/420/119449845374616316986.jpg" alt="画像" />　島には大自然がある。うまい魚と酒がある。歴史がある。ゆったりした時の流れがある・・・。こんな島を好きな自由人が集まる「日本離島研究会」というのがあると聞いて、数年前、一も二もなく参加した。25年前、この会を作った会長の阿比留（あびる）勝利さん（<a href="http://jiu.ac.jp/tourism/" target="_blank">城西国際大学観光学部</a>教授、<em>写真</em>）は、長崎県の対馬（つしま）出身。その「思い出ごはん」は、島のものではなくて・・・。</p>
]]>
        <![CDATA[<p><strong>☆自在な「日本離島研究会」会長</strong></p>
<p>　阿比留さんは、千葉県鴨川市にある大学に1昨年4月、新設された観光学部のウェルネスツーリズム学科教授。聞き慣れない「ウェルネスツーリズム」とは「地域の人々との交流を通じて環境や文化を大切にし、心と身体を癒す旅」のこととか。観光業界に直結する人材育成のため、ホテルや「道の駅」などでの実地研修を必須にしたユニークな授業を展開している。</p>
<p>　早大理工学部、同大学院で建設工学を学んだ後、会社員を経て都市地域計画のコンサルタント会社を設立。30余年にわたって、全国各地の都市・農山漁村で、街づくりや村おこしの開発計画の策定に携わってきた。その対象の中に離島も含まれており、島好きの仲間が集まって「日本離島研究会」を作った。</p>
<p>　会員は、世界の1000以上の島を回ってきた大学教授や財団法人日本離島センター幹部、島好きが高じて島に移住してしまった夫婦、一般会社員、そして純粋島人の「地域会員」まで。島好き、酒好き、旅好き、人好きなら、誰でもＯＫ。来る者は拒まず、去る者は追わずの自在な会。離島振興のための真面目な勉強会や島でのシンポジウム参加などを挟みながら、年に一回の島旅行を楽しんでいるうち、気がついたら四半世紀が経っていた。</p>
<p><strong>☆対馬・豪族の末裔</strong></p>
<p>　阿比留さんの出身地の対馬は、「魏志倭人伝」にも登場する、壱岐（いき）と並んで古くから大陸や朝鮮半島との中継基地だった国境離島。全国的にも珍しい阿比留姓だが、この島では一番多い姓で、平安期の島を牛耳っていた島の豪族の末裔である。</p>
<p>　島の歯科医家庭に生まれた7人兄弟の末っ子。対馬周辺の海は、日本海にありながら黒潮の分流である対馬海流（暖流）の影響で大型、小型の回遊魚がたくさん集まってくる。その日獲れた魚が食卓に上るわけだから、朝から鯛を焼いて食べることなど日常茶飯事。高級剣先イカやミズイカなど季節ごとに異なるうまいイカがいっぱい獲れた。漁師には現金収入がないときもある。あるとき、父は、総入れ歯一式の治療代と伝馬舟一艘を交換するという珍妙な条件で、小舟を手に入れ、磯釣りなどを楽しんでいたものだ。</p>
<p>　高校卒業までこの島で暮らした阿比留さんにとって、少年時代の忘れられない思い出が一つある。対馬は長崎県とは言いながら、九州本土は博多の方が近い。島を離れて博多に行くために玄界灘を初めて越えたのは小学4年生のときだった。</p>
<p>　胃潰瘍を患い、島で闘病生活を送っていた母が博多の専門病院に入院することになり、自宅で阿比留少年の面倒を見る人手がなくて、母と一緒に入院にしなければならなくなったのである。小さな渡海船で、地元の人たちが朝鮮風と呼ぶ北西の季節風の吹き荒れる海を渡った。ペンキと嘔吐の混じった臭いがぷんぷんする船底を転がりまわった。船酔いがひどく、特に病気の重い母は死ぬ思いだったようだ。</p>
<p>　病院に「住んで」母と寝食をともにした一ヶ月。生まれ育った島以外の世界での初めて体験は大きなショックだった。初めて乗った電車や汽車、鼻につくガスの臭い。島を対象化し、島のまとまりよい小宇宙を世界に置き直して考えるようになった端緒はこの頃だった・・・と日本離島研究会の20周年誌で述懐している。</p>
<p><strong>☆母の「焼きビーフン」</strong></p>
<p>　そして、阿比留さんの「思い出ごはん」は、ほかならぬこの母がよく作ってくれた「焼きビーフン」である。</p>
<p> 　    明治女の母は鹿児島の軍人の家庭の生まれ、父の赴任で同行した当時、植民地の台湾で育った。本場仕込みの母の焼きビーフンは、椎茸や豚肉や卵がたっぷり入った醤油の匂いも香ばしい一品で、子供たちの人気メニューだった。阿比留さんが大学時代、東京から帰省すると黙っていても食卓に並べてくれた。故郷「対馬」の料理といえば、地元の料理ではなく、とっくに亡くなった母の顔とともにこの「焼きビーフン」を思い出す。</p>
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    <title>ああ、ブラジル！</title>
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    <published>2007-11-14T10:47:59Z</published>
    <updated>2009-05-13T10:52:50Z</updated>

    <summary>  海外ビンボー旅行で見聞を広めるのはいつの時代も若者の特権。作家の小田実さんが...</summary>
    <author>
        <name>ozora</name>
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        <category term="旅ごはん" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.showanavi.jp/gohan/">
        <![CDATA[ <p><img src="/gohan/images/420/119459607297216218780.jpg" alt="画像" /></p>
<p>海外ビンボー旅行で見聞を広めるのはいつの時代も若者の特権。作家の小田実さんが当時の若者を熱狂させた世界旅行記『何でも見てやろう』を書いたのは1961年（昭和36年）。イラストレーターの<a href="http://www.asahi-net.or.jp/~IR4N-KHR/nagao/" target="_blank">長尾みのる</a>さん（<em>写真</em>）は、それ以前の1950年代前半、南米ブラジルからヨーロッパを4年間、放浪した。「わが人生の原点」という遥かな国で食べたものは、生涯忘れられない。</p>
]]>
        <![CDATA[<p><strong>☆生涯現役</strong></p>
<p> 　「イラストレーター」という表現は、今でこそ一般的だが、それまで使われていた「挿絵画家」をやめて「イラストレーター」を日本で最初に使ったのは長尾さん。</p>
<p>　昭和30年代、当時、無名の新人だった永六輔さんが「ボク、今度『アサヒグラフ』で小説を連載するんだけど、絵を描かないですか？」とやはり無名の長尾さんに電話をかけてきた。朝日新聞社へ飛んで行ったら「永六輔という新人に大朝日が連載小説を書かせるのさえ冒険なのに、さらに無名の絵描きとは？」とあきれ声が聞こえた。「挿絵画家だと先輩がいっぱいいるけど、上に誰もいなけりゃ新人じゃないわけでしょ。イラストレーターという肩書きの画家は日本にいません」。懸命にねばったらＯＫが取れた。イラストレーションを縮めたイラストはモダンな挿絵というあいまいな感じが受けて、以来、世間に広まった。＝自著『明日もパフォーマンチックに』（毎日新聞社刊）より＝</p>
<p>　間もなくやってきた週刊誌全盛時代。長尾さんはさまざまな作家たちと組んで多くの連載をかかえ、本の装丁などでも売れっ子に。芥川賞作家・菊村到さんやシャーロック・ームズ研究家の長沼弘毅さんらとのコンビもよく知れられている。メキシコ旅行記『ソンブレロは風まかせ』はベストセラーからレコードにまでなった。</p>
<p>　俳句をよくし、軽妙なエッセイ本も30数冊。間もなく「傘寿」を迎えようという今年１月、中国春秋時代の哲学者老子を水墨画（墨絵イラスト）で読み解いた『<a href="http://www.asahi-net.or.jp/~ir4n-khr/nagao/edeyomuroushi.html" target="_blank">絵で読む"老子"無為を生きる</a>』（小学館刊）を上梓した。また、ひょんなことから、1970年代に出版した、イラストーリー『<a href="http://members.jcom.home.ne.jp/yoruhiru/pro_main.html" target="_blank">バサラ人間</a>』と『革命屋』（<a href="http://members.jcom.home.ne.jp/yoruhiru/nagao.html" target="_blank">よるのひるね</a>刊）が復刻され、現代の若者たちに受けている。</p>
<p><strong>☆美味！ピラニアのにぎり寿司</span></strong></p>
<p>　さて、この、バガボンド（放浪者）の「思い出ごはん」はやはりブラジル。戦後間もない24歳のとき、南米航路の貨客船「さんとす丸」でブラジルに着いた。最初の仕事は映画館の看板書き。富士山の油絵をぶら下げて強烈な太陽が照りつける赤い土煙の奥地まで売り歩いた。</p>
<p>　その原始林の中で、フランスにいたことがあるという野武士のような日本の老人に出会った。あこがれのパリの話を聞くうち、老人はふと俳句を一句口ずさんだ。</p>
<p>　流されて流れて春を水澄</span>（みずすまし）</p>
<p>　人生は流されっぱなしでも自分で泳ぐばかりでもないんだよ、と禅僧が説くような話。絵の行商で資金を貯めた長尾青年はこの後、パリに渡り、絵の勉強を続けたが、老人の贈ってくれた俳句は終生の人生哲学になった。</p>
<p>　行く先々で日本人移民たちの世話になったが、とある奥地で「にぎり寿司」をご馳走になった。熱帯の川のそばで出会った思いがけない日本食。白身魚だった。うまい、うまいと食べ終わってから、魚の正体を聞いて驚いた。世界で最も恐ろしい淡水魚といわれる「ピラニア」だった。</p>
<p><img src="/gohan/images/420/119459603349616218780.jpg" alt="画像" /></p>
<p>　もう一つは有名なブラジル料理「フェイジョアーダ」（<em>イラスト長尾さん＝上</em>）。もともとは奴隷たちが主人の食事の残り物で作った料理で、牛や豚の耳、鼻、手足、しっぽなどと「フェイジョン豆」（黒豆）を一緒にじっくり煮込んだもの。匂いがきつい上に肉に毛がはえていたり、目玉が入っていたりしたが、慣れれば旨く、安くて栄養もあるというので週に一度は食べた。20余年後、再訪したら値段も高くなって、もはや贅沢料理になっていた。
<p>　実は私こと思い出ごはん亭おやじは、15年以上も前、私のやっていた雑誌で長尾さんの3度目のブラジル感傷旅行を特集、地球の反対側の彼の国まで遙々と同行した。もちろん本場の「フェイジョアーダ」にも挑戦した。強い地酒ピンガにスダチに似た青レモンを絞った「カイピリーニャ」と呼ばれる飲み物がよく合い、何杯もお代わりをした。長尾さんのブラジルびいきが移ったのはいうまでもない。
</p>]]>
    </content>
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    <title>ナイフで世界を駆け巡る</title>
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    <published>2007-11-12T10:53:52Z</published>
    <updated>2009-05-13T10:57:50Z</updated>

    <summary>  「飲む、打つ、買う」は昔の男の三大道楽.。現代はとなると、万年筆、時計、オー...</summary>
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        <category term="旅ごはん" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[ <p><img src="/gohan/images/420/119459746381816132633.jpg" alt="画像" /></p>
<p>「飲む、打つ、買う」は昔の男の三大道楽.。現代はとなると、万年筆、時計、オーディオ、釣り、鞄、鉄道模型、車、など多種多様で枚挙に暇がない。東京台東区の老舗<a href="http://www.okayasu-kk.com/" target="_blank">岡安鋼材</a>社長、岡安一男さん（<em>写真</em>）の場合は、カスタムナイフ（手作りナイフ）とカメラと飛行機。とりわけ、ビジネスも兼ねたナイフは日本を代表するディラーとして毎年、世界中のナイフショーを駆け巡っている。余裕ある団塊の世代。旨いものも食べつくしているグルメでないわけがない。</p>
]]>
        <![CDATA[<p><strong>☆カスタムナイフ、ライカ、ＤＣ８</strong></p>
<p>　ナイフには、工場で大量生産される「ファクトリーナイフ」と一本、一本丁寧に手作りされる「カスタムナイフ」がある。カスタムナイフの神様と言われるアメリカのR.W.ラブレスさんの作品は1本400万円もするという。</p>
<p><img src="/gohan/images/420/119482888701416320006.jpg" alt="画像" /><br />
(ラブレスの逸品、ニューファイティングナイフ。78歳のラブレスは、今後もう作らないという）</p>
<p>　岡安さんは、そのラブレスさんと30年の親交があり、日本のカスタムナイフのメーカー、ショップ、コレクターで作る「ジャパン・ナイフ・ギルド」（JKG）の会長も務めた。毎年6月、映画「風とともに去りぬ」の舞台となった米国アトランタ（ジョージア州）で開かれる世界一のナイフショー、10月、パリで開かれるヨーロッパ最大のナイフショーなど、世界中を飛び回っている。</p>
<p>　カメラ歴も30余年。ドイツの高級カメラ「ライカ」マニアで、ボディ25台と21ミリから135ミリまでのすべてのレンズを所有、アナログ名機の粋を楽しむ。飛行機は航空ファンで作る「エアライナークラブ」の元関東支部長。"空の貴婦人"と言われた往年の名ジェット旅客機、日航ＤＣ－８の引退時に「さよならメモリアルツアー」を企画、チャーター便を仕立てて香港までのラストフライトを楽しんだ。</p>
<p>　ＪＲ山手線の御徒町駅近くにある自社ビルのショールームには、世界有数の品揃えのナイフとジャンボ機の本物の座席や模型飛行機がぎっしりと展示されていて、さながら男の隠れ家・趣味の城。日本旅行作家協会（兼高かおる会長）所属の旅行作家、国際ジャーナリスト会議理事など多彩な肩書きも持つ。</p>
<p>　実家は、祖父の代から刃物用の鋼材商。小学生時代、富士山麓で開かれたボーイスカウトの世界ジャンボリー大会に参加したとき、米英から来たスカウトが持っていたキャンピングナイフの素晴らしさに魅せられたのが、こだわり人生の出発点だった。</p>
<p><img src="/gohan/images/420/119482902840116215594.jpg" alt="画像" /><br />
（ナイフショーに出品されたナイフの数々）</p>
<p><strong>☆ホテルのトイレで飯ごう炊さん</strong></p>
<p>　さて、この三代目社長の第一の「思い出ごはん」は、1ドル360円時代の高校2年生の夏休み、日本キャンピング連盟主催のヨーロッパ研修旅行（2週間）に参加したときのこと。南周りのＤＣ８機でギリシャ、ドイツを経てスイスのホテルへ着いたとき、山岳部の一人が「チーズもパンも食べ飽きた。米を持ってきたからメシを炊こう」と言い出した。</p>
<p>　タイル張りのトイレ兼バスルームにこもり、固形燃料に火をつけ、予て持参の飯ごうで炊き上げた。立ち上るごはんの匂いがホテル中に流れたが、なにかまうものか！梅干と海苔、鰯の缶詰と一緒に食べた白いごはんは、世の中にこんなうまいものがあったか、と思うほど美味だった。</p>
<p>　第二の思い出は、少しさかのぼった昭和30年代の初め、母の実家の千葉県浦安で過ごした小学生時代。東京湾の埋め立てで沿岸きっての近代都市に変貌した浦安は、当時はまだひなびた漁師町。山本周五郎の「あおべか物語」に出てくる海苔や貝類を一人で取る「べか舟」がたくさん浮かんでいた。</p>
<p>　半農半漁の祖父たちが焼玉エンジンで操る舟で沖合いに出、はぜ釣りや潮干狩りをして遊んだ。潮風に吹かれながら、獲ったばかりのはぜの天ぷらと一緒に食べたおにぎりがこれまた美味だったが、出発前、いっぱい利かせて握ったはずの塩味が、海の上ではなぜかきれいさっぱり消えていたのを覚えている。　</p>
<p>　恵まれた環境を生かしながら、新分野にも積極的に挑んだ経営者人生。様々なビジネスシーンや幅広い人脈との付き合いで豪華な食事は堪能した。パリ・モンパルナスの行きつけのプラスカフェは、何時顔を出してもサンテミリオンのワイン２本を出してくれる。ミシュラン三つ星の「すきやばし次郎」、同一つ星の「銀座久兵衛」など数々の高級寿司店での食べ歩き、帝国ホテルからフランス料理を取り寄せた知人宅での超高級ワイン「ロマネコンティ」パーティも楽しかった。</p>
<p>　だが、やっぱり記憶に残るのは炊き立ての白いごはん。<br />
　「そうそう、アラスカのナイフショーの前にアンカレッジで作家の開高健さんの釣り仲間でもあった写真家の青柳陽一さんと出会い、青柳さんが作った味噌汁とおしんこ付きの白メシをご馳走になったことがあった。あのメシもうまかったなあ」</p>
<p>
　食べ物は、やっぱり一緒に食べた相手と環境。日本人に生まれてよかったと思う瞬間である。
</p>
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    </content>
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    <title>山古志村　「マリと子犬の物語」</title>
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    <published>2007-11-07T04:29:17Z</published>
    <updated>2009-05-14T04:36:30Z</updated>

    <summary>  　68人が亡くなった新潟県中越地震から3年。全村避難した旧山古志村（現長岡市...</summary>
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        <category term="天災ごはん" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[ <p><img src="http://www.showanavi.jp/gohan/images/119390211885416421754.jpg" alt="画像" /></p>
<p>　68人が亡くなった新潟県中越地震から3年。全村避難した旧山古志村（現長岡市）で起きた老人と愛犬の奇跡の実話を基にした映画「<a href="http://mari-movie.jp/index.html" target="_blank">マリと子犬の物語</a>」（東宝系）のロードショーが12月8日から始まる。そのモデルで、村の災害対策本部員としても駈けずり回った役場の職員、五十嵐豊さんの「震災思い出ごはん」は、「炊き立てのごはんと暖かい味噌汁」だった。(<em>写真はマリと五十嵐さん</em>）</p>
]]>
        <![CDATA[<p><strong>☆マリが父の命を救ってくれた！</strong></p>

<p>　五十嵐さんと偶然出会ったのは、この9月、フードジャーナリストの向笠千恵子さんに誘われて参加した新潟コシヒカリの本場、加茂市の農家「<a href="http://www.kayamorinouen.com/" target="_blank">かやもり農園</a>」の体験ツアーだった。今、一番の売れっ子料理人、野崎洋光さん（東京麻布「分とく山」総料理長）も一緒とあって約30人の参加者たちは、大張り切り。稲刈りに汗を流した後、美味しいおむすびの作り方を学び、穫れたて野菜のバーべキューを楽しんだ。</p>

<p>　おじいちゃん、おばあちゃんから孫娘まで一家を挙げての歓待。若き農園後継者、萱森敦之さんの仲間の地元農家との交流会も行われ、餅つき部隊として応援に来てくれたのが、五十嵐さんだった。</p>

<p>　マグニチュード6.8の中越地震の起きた2004年10月23日夕、震源に近い山古志村は、地すべりなどで壊滅的に破壊された。最初に五十嵐さん一家の物語を伝えた地元新潟日報紙（同年11月21日）によると・・・</p>

<p>　当時、五十嵐さんは、長岡市への出張の帰りで小千谷市にいた。山古志の自宅には、身体が不自由な70歳の父と当日朝、子犬3匹を産んだばかりの愛犬マリ（当時3歳）がいた。帰る道はすべて絶たれ、連絡も取れなかった。</p>

<p>　父は無事か、家はどうなったのか。村の外にいた職員と合流、長岡市に村の対策本部を作り、情報の入手や救急車の手配に走り回った。2日後、全村避難。ヘリで救出された父は再会できた息子に「マリが救ってくれた」と涙で語った。</p>

<p>　倒れたタンスの下敷きになり身動きが取れなくなった父は、一度はあきらめかけた。そこへマリが来て震えながら顔をなめた。ガラスで顔を切りながらも、心配そうに子犬と父の間を往復する。愛犬の献身的な姿に気持ちが奮い立った。</p>

<p>　五十嵐さんがマリと会えたのは、初めて帰村した11月10日。無事でいてくれ、と祈りつつ家に近づき、名前を呼ぶとマリがぶつかるように飛びついてきた。子犬3匹も無事。無人の村で半月以上、主人の帰りを待ったマリは、その日、五十嵐さんから離れようとしなかった・・・。</p>

<p>　この奇跡の物語は全国に波紋を呼んだ。テレビに取り上げられ、絵本『山古志村のマリと三匹の子犬』（文芸春秋刊・<em>写真下</em>）になり、アニメになり、そして映画化された。</p>

<p><img src="http://www.showanavi.jp/gohan/images/420/119390231729316313130.jpg" alt="画像" /></p>

<p><strong>☆何より温かい食事がほしい！　そして災害用のキッチンカーを</strong></p>

<p>　山古志村は「平成の大合併」で長岡市となり、五十嵐さんは現在、財団法人｢<a href="http://www.yamanokurashi.jp/" target="_blank">山の暮らし再生機構</a>｣に出向、震災地域全体の復興にかかわるディレクターとして活動している。</p>

<p>　一家の体験談が大きな反響を呼び、映画にまでなったことについて「いろいろ脚色されていて・・」と苦笑するばかりだが、震災時の混乱の記憶は今も生々しい。</p>

<p>　「人口2200人の村に2300人分の応援食が来ました。一番、最初に届いたのは菓子パンなどのパン類。次いでおにぎりが届きましたが、被災者が一番喜んだのは温かいごはんと味噌汁でした。メニューの中で人気ナンバー１は、温かいカレーライス。余震におびえる寒空の下、温かい料理が一番の慰めと励ましでした」</p>

<p>　五十嵐さんは、震災後、各地の震災関連シンポジウムなどにパネラーとして招かれ、震災体験を語る機会が多い。　　　<br />
　「地震国日本では、いつ大きな震災があるかわからない。そのときに備えて調理設備を搭載した屋台風の軽トラックのような車を開発して、常備しておきたいですね。言ってみれば、キッチンカー"ぬくもり号"。災害があればボランティアとともに全国どこへでも飛んで行って、温かいごはんや味噌汁、スープを提供するシステムを作りたいのです」</p>

<p>　五十嵐さん（<em>写真下</em>）父子は、震災以来、不便な仮設住宅暮らしを強いられていたが、山古志村に再建していた家が年内に完成、マリとともにふるさとの村で新年を迎える。3匹の子犬たちもそれぞれもらわれて幸せに暮らしている。
</p>
<p><img src="http://www.showanavi.jp/gohan/images/420/119155937141816332418.jpg" alt="画像" /></p>]]>
    </content>
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    <title>リリー・マルレーンの歌</title>
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    <published>2007-11-05T10:18:23Z</published>
    <updated>2009-05-07T10:29:21Z</updated>

    <summary>  　ドイツ生まれの女優、マレーネ・ディートリッヒの持ち歌で世界的に有名な「リリ...</summary>
    <author>
        <name>ozora</name>
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        <category term="おふくろごはん" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[ <p>
<img src="http://www.showanavi.jp/gohan/images/420/119381759181616119763.jpg" alt="画像" /></p>

<p>
　ドイツ生まれの女優、マレーネ・ディートリッヒの持ち歌で世界的に有名な「リリー・マルレーン」。第二次世界大戦下、この曲が流れると敵も味方も銃を捨てて涙を流したという伝説の名曲だ。歌詞を知らなくても、曲が流れてくると「<a href="http://utagoekissa.web.infoseek.co.jp/lilimarleen.html" target="_blank">ああ、これか</a>」とうなずく人も多いだろう。東京世田谷のＮＰＯ法人「50カラット会議」代表、志垣豊子さん（<em>写真</em>）の「思い出ごはん」は、亡き母が、台所でときにこの哀愁の反戦歌を歌いながら作ってくれた栄養満点のボリューム・スープである。
</p>]]>
        <![CDATA[<p>
<strong>☆中高年女性たちをネットワーク化</strong><br />

　元雑誌編集者の志垣さんが50代女性たちの情報交換ネットワークとして「<a href="http://www.50ct.net/" target="_blank">50カラット会議</a>」を発足させたのは2000年春。03年、ＮＰＯ法人化。料理研究家、管理栄養士、大学教授、編集者、写真家、作家、画家、デザイナー、建築家、医師、美容研究家など約450人の多彩なメンバーで構成されている。
</p><p> 　「もう若くはないけれど、まだまだ元気。人生80年時代を幸せに過ごすための知識と体験を話し合いましょう」。<br />
こんな呼びかけでさまざまなテーマを掲げ、定期的なブレーンストーミング会議やオープンハウスパーティ、ワークショップなどの活動を重ねてきた。その内容は、活動に関心を寄せる全国約4000人に機関誌やインターネットで届けられている。
</p><p> 　メンバーの知恵を集めた出版にも力を入れており、02年の『キレイは50歳から』（朝日出版社）に続き、今年5月には『笑ってごはん』（<em>写真</em>、家の光協会）を発刊した。<br />
<a href="/gohan/images/420/119381771229516313479.jpg" target="_blank"><img src="/gohan/images/420/119381771229516313479.jpg" alt="画像" width="420" height="586" /></a>
<br />
　『笑ってごはん』は、会議で話し合った高齢社会時代の食生活をテーマにした本。<br />
　例えば<br />
　「好きなものは、歳をとってもずっと大好き。高齢になったら和食だなんて決めてはいけない。トンカツもビーフシチューも、家族と同じものを食べていきたい」<br />
　「ごはんものは、年齢不問でみんな大好き。炊き込みごはん、おすし仕立て、どれも懐かしい思い出付きです。家にいる時間が増えた夫にも最適ですよ」<br />
　材料はワンサイズ小さく切る、やわらかめに火を通す、缶詰も柔軟に取り入れる、など高齢者やその家族にとって、作りやすく、食べやすい工夫を凝らした料理約70品を紹介している。タイトルは「食欲は一生の宝。ごはんはずっと笑って食べたい」との意味を込めた。</p>

<p>　志垣さんは、東京隅田川河口の「木場」の材木問屋の生まれ。大勢の家族や従業員に囲まれて育った。ある時、父の仕事が取引先の事情から破綻して、食卓を直撃した。母千代さんは、６年前、93歳で亡くなったが、子供を驚かせるのが大好きで、貧しくなった食卓を面白メニューで賑わした。あるときは、コロッケの中から板チョコやバナナが飛び出して子供たちは仰天した。「今日はネギだけよ」と澄まし顔で出してきた長ネギ料理は、芯をくり抜いた中にひき肉が詰められていて大笑い。そんな楽しい母の「思い出ごはん」を綴った一文を寄せてくれた。</p>

<div style="padding: 10px; background: rgb(240, 240, 240) none repeat scroll 0% 0%; -moz-background-clip: -moz-initial; -moz-background-origin: -moz-initial; -moz-background-inline-policy: -moz-initial;">
<p><strong>☆ボリューム満点のスープ料理「えいよう」</strong></p>
<p>　
のんびりと大きくしてもらったなぁと振り返った時、ふと思い出したのが「えいよう」である。高校生になったころ、突然、わが家は貧乏になり、その生活で夕餉の食卓に頻繁に登場したのが、冬なら根菜、秋ならカボチャやさつまいもなどあり合わせの野菜あれこれに、油揚げ、ちくわ、魚肉ソーセージなど格安たんぱく質を加えたボリューム満点のスープだった。彩り豊か、歯ごたえ抜群、お腹もいっぱいになる優れメニューで、母は「えいよう」と命名した。</p>
<p>　貧乏になったことがはっきり自覚できなかったかのように、母は台所で陽気だった。「お手伝いさんがいない分、気を遣わなくていいわ。いろいろやってみましょう!」と、言いながら、おかずも兼ねた炊き込みごはんや混ぜごはんを考案しては、「１皿で５品分おいしい!」などとニコニコ並べてみせたのだが、「えいよう」もその１つである。</p>
<p>　「えいよう」の味は、鶏ガラがタダで手に入ると中華風になり、切羽詰ると味噌仕立てになって、子供たちをびっくりさせた。私の兄妹は７人だが、当時は姉が結婚して６人。高校生の私を真ん中に、揃って育ち盛りだったので「育ち盛りは、味覚も育つときだもの、いろいろな味が試せなくちゃね!」と、これまた陽気な屁理屈を披露しながらのお膳立てであった。</p>
<p>　が、そんな母も貧乏に疲れる夕方があったようで、そんな台所からは大きな声で歌う「リリー・マルレーン」が聞こえてきた。そして夕餉の食卓には、真っ赤な「えいよう」が並んだのである。熟したトマトが山盛りで売っていたと聞いた気がする。</p>
<p>　さすがのんき者の私も、貧乏に立ち向かった母の悲しさに涙した夏の日の思い出である。</p>
</div>
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