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あゝ思い出ごはん

誰の胸にもある忘れられない食事の思い出。
一つの料理とともに人生の大切な場面が蘇る。
あなたの思い出の一品と物語はなんですか?

2007年12月 5日 16:27 | おふくろごはん

忘れえぬ学童疎開の母ごはん

画像  学童疎開-。今どきの若者にはとんと馴染みのない言葉だろうが、シニア層にとっては戦争を語るときのほろ苦いキーワードの一つ。太平洋戦争の末期、大都市の多くの子供たちは、空襲を避けて集団で農村部に避難させられた。東京のNPO法人「大豆100粒運動を支える会」代表幹事、山下啓義(けいぎ)さん(写真)の「生涯忘れられないごはん」は、その学童疎開の最中の出来事である。
☆多芸多才の趣味人は天才ジャズピアニストの実兄
 山下さんは、千葉県銚子市で400年近い歴史を持つ老舗、ヒゲタ醤油㈱の元専務。1昨年、退任した後は「スープ神様」と言われる人気料理家、辰巳芳子さんの様々な食育活動を手伝う傍ら悠々自適の生活だ。
 
 辰巳さんは、元々はNHKの「今日の料理」などでお馴染みの料理研究家。最近は料理指導だけでなく、日本の食文化や「食といのち」について積極的に提言、講演会などに大忙し。2年前から、自給率がわずか5%に激減した日本の大豆の生産を再興しようと「大豆100粒運動」を始めた。全国各地の学校や団体に呼びかけて、手のひら一杯、約100粒の大豆を播き、その生育を観察・記録しながら収穫してそろって食べようという運動だ。辰巳さんはほかにも「よい食材を伝える会」などを運営しているが、山下さんはそれらの活動を支援している。

 「一線を退いてからも何故か忙しいんです」と言う山下さんの素顔は、多芸多才な趣味人。大学時代はジャズバンドでドラムを叩いていたが、そのころ、6歳下の弟をジャズの世界に引き入れた。教えられる側からあっという間に教える側に回ってしまったその弟が、かの「天才ジャズピアニスト」にして作曲家、作家の山下洋輔さん。

 1970年代の半ば、洋輔さんがちょっとした冗談から「全日本冷やし中華愛好会」(略称全冷中)という遊びの会を作って会長におさまった。作家・筒井康隆、タレント・タモリ、漫画家・黒鉄ヒロシらが集まって「冷やし中華の正しい作り方」「冷やし中華文化」などについて大真面目に論議するイベントを開いてマスコミにも大人気だったが、このとき、会社の第一線にいた啓義さんもスポンサーを買って出て一緒に楽しんだ。つい最近では、「大豆100粒運動」のPRのため、2人で「大豆100粒のうた」を作った。兄が作詞、弟が作曲というコンビに発表会は沸いた。

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 会社に入ってすぐ上司の薦めで始めた尺八は、日本最古の流派、琴古流で研さんを積み今や指南。(上の写真左から)洋輔さんのピアノ、妹眞理子さんのボーカル、そして啓義さんの尺八でファミリーコンサートをライブハウスで開いたこともある。尺八と同時に始めた俳句は、長い中断期間を経て4年前に復活、月に一回、日本橋の蕎麦屋の2階で句会を楽しんでいる。俳号は尺八の童号と同じ明童(めいどう)。

☆疎開先のお寺で栄養失調で倒れる
 熊本生まれの東京育ち。4人姉弟の第2子長男の啓義さんは、昭和20年の終戦時、東京世田谷区の国民学校(現在の小学校)3年生。3月10日、東京の下町が焼き尽くされた「東京大空襲」。死者10万人、負傷者11万人、そして100万人が家を失う大混乱の中で、本格的な学童疎開が始まった。子供たちは、各家庭で行った縁故疎開と集団で行った集団疎開に分かれたが、啓義少年は、5年生の姉美紗子さんと一緒に長野県下伊那郡のお寺へリュック一つで集団疎開した。

 同じ学校の3年生から6年生までが寺の本堂などで寝泊りする初めての集団生活。寺のふき掃除や桑の木の皮むきなど農家の勤労奉仕。三度三度の食事は大豆入りのごはん、といっても大豆の方が多い硬い少量のごはんと中身がなく底が透けて見える味噌汁だけ。あまりの空腹にヘビまで捕まえて食べる上級生もいた。 
 
 最年少の上、元々丈夫でなかった啓義少年は、ついに栄養失調で倒れ、意識を失ったまま寝たきりになってしまった。ちょうどそのころ、母菊代さんは東京に父啓輔さんだけを残して祖母とまだ幼い洋輔少年を連れて隣村に疎開してきた。二人はどうしているか? 安否の問い合わせで啓義少年の病気を知って寺へ飛んできた。

 「この子をこのままにしておくと死んでしまう!」 そう叫んだ母は、やせ細った息子を「拉致」同然に奪い取り、背中におぶるや山門を駆け下って1里(4キロ)だったか2里(8キロ)の道を転がるようにして疎開先へ戻り飯田の病院に入院させた。

☆白いごはんとジャガイモの味噌汁!
 母たちが間借りしていたのは、ブリキ屋さんの2階。倒れてから1週間ほども経っていたかどうか、やっと気がついた啓義少年の目の前にあったのは、家族の笑顔と湯気の立つ白いごはんに味噌の香りも高いジャガイモ入りの味噌汁だった。ジャガイモは根っこの先に出来た、やせて小さな粒の丸のまま。啓義少年はむさぼるように食べた。世の中にこんな美味しいものがあるかと思った。

 母は何も言わなかったが、このときの白米も味噌もジャガイモも、持ってきた自分の着物と交換したに違いない。後年、そのときの話になると「私はお前を2度生んでやったんだよ」と笑っていたがそれは母の誇りでもあっただろう。

 明るくて元気だった母。得意のピアノを子供たちに手ほどきし、教室を開いて近所の子供たちにも教えていた母。晩年は裏千家茶道の奥許し(最高位)の師範・宗菊として活躍していたが、3年の病床生活の後、昨年、94歳で亡くなった。
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