HOME > あゝ思い出ごはん > 巨星・虚子の「なぐさめごはん」
誰の胸にもある忘れられない食事の思い出。
一つの料理とともに人生の大切な場面が蘇る。
あなたの思い出の一品と物語はなんですか?
2007年11月28日 20:06 | 家族ごはん

「祖父は40代で軽い脳溢血を患ったこともあって、とても健康に気をつけていました。食事の時はいつも"よく噛みなさい"と言いながら自分もモグモグ、モグモグ、何時までもやっていましたよ」。俳句界の巨星、高浜虚子の孫の一人で神奈川県川崎市に住む経営コンサルタント、高木森二(写真)さんは、威厳の中に愛嬌のあった祖父の姿をよく覚えている。中でも高校受験に失敗したとき、祖父から振舞われた「なぐさめごはん」は忘れられない。
☆ホトトギス派の異端児
虚子には8人の子供と19人の孫がいた。高木さんは五女で俳人の故高木晴子さん(俳誌『晴居』主宰)の次男。森二の名付け親は虚子である。俳句は「門前の小僧」で小学1年生から母について習った。シナリオライターを夢見たこともあったが、大学卒業後は、日銀マンだった父と同じ銀行マンに。企業戦士真っ只中の頃、俳句は二の次だったが、不惑を過ぎてから本格的に勉強し、二足のわらじを履いた。
俳号は自宅のある小田急・向丘遊園にちなんで幽苑。現役時代から続けている俳句活動の中で、異色は受刑者たちの俳句指導。東京・府中刑務所が毎月発行している古い文芸誌『富士見』の俳句欄の選者である。その昔、作家の安部譲二さんを生んだこの雑誌で、塀の中の俳人たちともう10年も付き合っている。

虚子は戦前、イギリスに渡り、羽織袴姿で俳句についての講演をしたことがあったが、母晴子さんは、30年近く前、これを記念してゆかりの地ロンドン郊外の王立植物園に虚子の句碑を建立した。高木さんは6年前、その母を偲んで句碑の近くにプレートを刻んだ「メモリアルベンチ」(写真上)。左は料理研究家の妻、泉さん)を作った。
第一線を退いてからの高木さんは、文字通り俳句三昧。5つほどの句会で指導をしながら、昨年、念願の季刊俳誌『幽苑』を創刊した。母の遺言でもあったこの雑誌発行の目的の一つは、尊敬する祖父への思いや歳時記研究を書き残すこと。
「私はホトトギス派のアウトサイダーであり、異端児ですが、虚子のこととなると一晩中でも話したい。虚子を学び、虚子を語り継ぐことは私のライフワークです」。
熱を込めて語るカリスマ祖父との思い出は、子供のころにさかのぼる。
☆鎌倉虚子庵での忘れられない夕食会
当時、虚子は「虚子庵」と呼ばれた鎌倉の邸宅に住んでいた。江ノ電のチンチン電車がすぐそばを走り、由比ガ浜の波音が聞こえた。後年、ホトトギス派の大きな山脈を築いていく虚子の娘たちはいずれも鎌倉市内の徒歩圏内に住んでいた。
森二少年がたまに遊びに行くと、可愛がってくれた祖母が湘南の海で獲れたばかりの「ジンタ」と呼ばれる小あじを3枚におろした刺身やしめさばなどを用意して待っていてくれた。
その後、高木家は、父の赴任先の金沢に転居したが、森二少年は中学3年のとき高校受験のため上京、母とともに鎌倉の親戚宅に寄宿、虚子庵にも泊まった。いくつかの学校の受験に失敗し、明日は金沢へ帰るという前夜、祖父、祖母、母と4人の孫子水入らずでで夕食をともにした。
「何を食べたか、すっかり忘れましたが、食卓を囲んで座った位置ははっきりと覚えています。僕の前にいた祖父は"森二君!今度のことは残念だった。しかし、これも人生だ。こんなことでへこたれず、立派な人間になってくれたまえ"とやさしく励ましてくれました。あれはうれしかったなあ」
ものの本、『作家の食卓』(平凡社、コロナブックス)によると、虚子はおでんが好物だったという。
振り向かず返事もせずにおでん食ふ
おでんやを立ち出でしより低唱す
おでん屋の娘愚かに美しく
など、おでんが登場する句をいくつも残している。
森二少年の記憶によると、晩年の虚子はたとえ豆腐であっても、口の中でよく咀嚼して食べた。この晩餐のときもいつものように口をモグモグ、モグモグ。失意の高木少年にとっては、尊敬する祖父からのまたとない「なぐさめごはん」という貴重なプレゼントだった。巨星はちょうどその1年後の1959(昭和34)年4月、85歳で亡くなった。
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