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あゝ思い出ごはん

誰の胸にもある忘れられない食事の思い出。
一つの料理とともに人生の大切な場面が蘇る。
あなたの思い出の一品と物語はなんですか?

2007年10月22日 19:43 | ビンボーごはん

「十三湖のばば」の思い出ごはん (その1)

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 30年以上前、ベストセラーになった『十三湖のばば』(写真、鈴木喜代春・著、山口晴温・絵、らくだ出版)という児童図書の名作をご存知だろうか?青森県の津軽半島にある「十三湖」を舞台にした大正から戦後までの苦難に満ちた農民の物語である。恥ずかしながら、つい最近この本の存在を知った私は、出来るものなら、主人公の「ばば」に会ってその「思い出ごはん」を聞いてみたくなった。

☆胸が震えるような感動!
 この本を教えてくれたのは、2週間前のこのブログで紹介した『身につけよう!日本の食の習わし』の著者、鈴木延枝さん。鈴木さんはこの夏、N新聞の書評欄でこの本が絶賛されていることを知った。古い本なので最初にこの本を出した偕成社版は品切れでどこの書店にもない。インターネットで探すなどしてやっと入手した鈴木さんは読み終わって「胸が震えるような感動」を覚え、書評者に対する「何故?今更?」の問いに答えがはっきりと見えた、と自身の主宰するメールマガジンに書いてきた。私も一読、強く胸を打たれた。いささか長くなるが、初めての読者のためにあら筋を紹介する。

☆子宝11人。幼い子たちが次々に・・・
 十三湖は、津軽半島突端の竜飛岬から約30キロ南、 太宰治のふるさと金木町に近い、最大水深1.5㍍、周囲わずか30㎞の海水と淡水が混合した汽水湖である。

 「北の国、十三湖のほとりに、ひとりのおばあさんが住んでいた。空も湖も、砂山も海もくらいのに、おばあさんはあかるい。よく来た、よく来たと、わたしを喜んでむかえてくれて、80歳をこえたおばあさんは、13歳のような声でむかし話を語ってくれた」(はしがき)

 「こったらねとおい、津軽のはてコまで、よくきた。そんだ、あの、ぴらぴらど光ってるのが、山田川だ。 その先のたかい土手でかこまれでるのが岩木川だ。 山田川も岩木川も、ほれ、あの先にごちゃごちゃど、白い波コたてでいる十三湖さ、ながれていくのし」(本文冒頭)

 おばあさんが、この家に嫁に来たのは、大正の始めだ。ちょうど20歳(はたち)の時だった。それから、おばあさんは男の子5人、女の子6人も生んだ。
「よく生んだもんだと、びっくらするべよ」と、おばあさんは言う。
それでも、生きているのは男の子1人と、女の子が2人だけ。 後はみんな死んでしまった。 おばあさんは81歳、子供だけでなく夫までもおばあさんを残して死んでしまったのだ。

  ・・・こうして始まる物語は、暗渠排水や農耕機などがなかった時代に、貧困と飢餓と過酷な自然と戦いながら生きるおばあさんの思い出話で進められる。序章から終章まで津軽弁の訥々とした語りで子供と夫の死を懸命につづっていく。

【次女トメ】
 子供で一番先に死んだ。生まれて1年も経たないうちに。朝ごはんもそこそこに、田植えに出かけ、トメをエジコ(わらで編んだ桶のようなもの)に入れて、田の畦(あぜ)におろした。 田んぼは、〝腰切り田〟と云って、腰までぬかる泥田だ。 薄暗くなって、きりのいいところで田から上がって家へ帰ろうとしてエジコを見たら、トメがいなかった。明け方、堰(せき)にはまって死んでいるのが見つかった。エジコから一人で出て、田の畦をはって歩いて堰へ落ちてしまったのだろう。

【長女ミチ】
  二番目に死んだのは、12歳だったミチ。その時もやはり、田仕事の一番忙しい田植え時だった。ミチは賢く、よく働く女の子だったが、その日に限り、頭が痛いと起きてこなかった。 熱があって、どうしても起きようとしないミチに、 ばばは「赤いカーネーションの花模様の着物を買ってやる」と出まかせを言った。
 思いもしない言葉に、ミチはフラフラになった体を奮い立たせた。
どっぷりと泥の中に胸まで浸かって、一株、一株植えて行く。赤い着物欲しさにミチは狂ったように植え続ける。昼休みになってもミチは上がってこない。
気が付くと、ミチは泥人形のように北西風の吹く冷たい泥の中に苗を植える姿のままで死んでいた。 あんなに欲しかった〝赤いべべ〟を着ることもなく。

【次男忠次郎】
  三番目に14歳で死んだ。雨が降らない年だった。夜になると、おやじと二人で田に水を入れるために水車を踏んだ。朝早くから夜遅くまで田植えをして、体は疲れきっている。 眠くて眠くて絶えられない。 とうとう、忠二郎は水車から落ち、水車に巻き込まれて、もがいて死んだ。

【五男兵五郎】
  小学校に入ったばかりの7歳で死んだ。 その年は大飢饉で、食べる米もなかった。 とれた米の半分は年貢で地主にとられてしまう。わずか半分のうち食べる分をとって、みんな売ってしまう。
 兵五郎は、みんなのためにイナゴをいっぱいとって来た。トンボも食べさせた。つくしも、ふきのとうも。ある日、兵五郎は子供たちと屏風山という砂山に入って行った。 食べられるものを探して、色々の木の葉っぱをむしってなめているうちに、大きな葉っぱを見つけた。それは、ぶどうのつると葉だった。 「うめえ、うめえ」とみんな喜んで食べた。 村の人たちは、兵五郎を救いの神とばかりに崇めた。
 けれど、飢饉はひどくなる一方だった。冬になると、食べるものが何にもなくなってしまった。 そんな時、兵五郎の様子がおかしくなったと村の子供たちが駆けつけた。 ばばが走って行った時にはもう死んでいた。 三光沼のそばに、紫色に熟した実がなっていた。それは、おそろしい毒をもっている毒うつきだった。みんなは「それは毒だ、食えねえ」と言ったのに、兵五郎は「食えば食える」と言って食べてしまった。
 死ぬことよりも、生きることの方がよっぽど苦しい、その年の飢饉であった。

 このあと、五男と同じ飢饉の犠牲になった六女。不慮の水没事故死をした夫。三女は上方へ働きに行ったままで音沙汰なし。長男は大雨の中、刈り入れて束にしていた「稲島」を守ろうとして十三湖にのみ込まれた。三男は戦死・・・と家族の悲劇は続く。

 戦争が終わってから、ばばは、農民組合長と約束し、百姓が人間らしく生きる世の中を作るために走り廻った。80歳になったばばは言う。
「まだまだ死なれねど。百姓ば、だいじにする世のなかを、つくるまで死なれねど」

☆おばあさん!一番美味しかったものは?

 鈴木延枝さんは、読み終わってこう書いた。
 「何とも暗く重い現実。けれどばばの話は、苦しい現実を跳ね返していく力を私に与えてくれた。〝死〟を〝生〟に変えていくエネルギーの力強さを」


 「食料自給率が40%を割った日本にあって、 米だけが100%に近い自給率を保っている。 何かの異変で、日本が孤立してしまうようなことになったら、米だけが頼りである。 農業、特に米作農家のことをもっと真剣に考えなければならないと、今更ながらに思った」

 「今の十三湖の辺りには、こんな残酷な腰切り田はない。 暗渠排水も終わって、真っ白な水芭蕉が何事もなかったように咲いている。今、このばばに"一番美味しいものは何だった?"と聞いたらば、こう答えるだろう。『大根漬けばかじって食う、田植えのめしだ』と」


☆「十三湖のばば」の話は、次回に続きます。
☆らくだ出版=東京都目黒区上目黒4-19-1 電話:03-5721-2733

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